大企業・総評型労働組合はどうなったのか

2019年7月10日 (水)

《「はたらく」(1979年~1987年)、――「指名解雇された沖電気の仲間を支援する会 ニュース」》をUPした。

 「沖電気争議の記録」のページ

http://e-union.sakura.ne.jp/okidenkisougi/190708hataraku.html

 

 現在は、SNS全盛期で労働弁護士や労働組合活動家の呼びかけで、facebooktwitterの活用の学習会が行われているが、戦後、私が知っている1970年代からでも「機関紙活動」が労働組合運動のなかで重視されていた。

 その代表的なものにニコヨンさん・日雇い労働者を対象に、有料制で現場で読み合わせをする「じかたび」(全日自労機関紙)が有名だった(「じかたび 1500号さらに輝け」全日自労・じかたびの研究――松澤常夫のページ参照)。

http://e-kyodo.sakura.ne.jp/matuzawa/jikatabi.html

 

 この機関紙活動と匹敵する新聞として、「71名の若き労働者(平均年齢30歳)が沖電気における指名解雇攻撃撤回闘争を闘った争議」で毎月1回定期発行した《「はたらく」――縮刷版・準備号~第97号、(1979年~1987)、――「指名解雇された沖電気の仲間を支援する会 ニュース」》は、歴史に残る発行物だった。

 190708hatarakutop1

 

 同書前書きで、日本機関紙協会東京都本部理事長矢野政昭・事務局長大淵俊之両名の《「はたらく」“不滅”です》には、以下のようにその意義が書かれている。

 

 この「はたらく」で評価できることは次のような点にあります。

 ① 月一回の定期発行をきちんと守って、全国の読者に届けたことです。

 ②タブロイド四ページ建の紙面は、ともすれば“闘争ニュース”だけになりがちなところをグッとこらえて、記事の内容をかなり幅広くとりあげたことです。

ベトナム戦争のこと、三宅島闘争のこと、原発問題、国家秘密法――など“総合的” な企画で、しかも“足” をつかって記事を書いて仲間に訴えかけたことです。つまり沖電気の闘争は、全国的な政治、社会問題と深くかかわっていることが“事実” を通して報道されつづけたものです。

 ③クイズをのせたり、子どもの成長を中心に家族を登場させたり、マンガで綴ったり――と、だれにでも分り、理解され、支援を拡げる“大衆性”もこの「はたらく」はスペースをさいていることです。

 ④「はたらく」を中心としながら、ポスター、ビラ、リーフ、パンフなど、そのつど作成された沖電気闘争の宣伝物は、どれ一つみても洗練されたデザインや技術で、最高水準のものばかりであったと思います。機関紙と宣伝技術がいかに大切かも教えています。

 

 1970年代末から1980年代半ばの沖電気争議は、全国を震撼させた「指名解雇」だったが、ニュース「はたらく」は、今読み返してみると、「闘う人間の宝庫」だ(全国各地に訴えた若き行商マン、争議中であっても結婚して子育てした女性・青年のがんばり、会社から排除された青年たちの人間的つながり、それぞれの個性が絡み合った力の発揮、親子で闘った子どもの力、沖電気争議を各職場で支えた人間集団、沖企業内で“いじめ”と闘った人たち、東京争議団をはじめ他企業の労働者との行動、電機産業における電機総行動づくりを担った人たち、福島原発推進を反対した人、平和を願って外国まで訴えに行った人などなど、まだまだ書ききれない)。

 私個人としては、今回、連続的に「沖電気争議の記録」をWEB上にUPできたことは、「現代労働組合研究会のページ」を作り続けてきた、“こころのとげ”の一つを解決できたので、感謝したい。

http://e-kyodo.sakura.ne.jp/roudou/union-top.html

 

2019年6月10日 (月)

「沖電気争議の記録(1978.11/21~1987.3/31)」のページをUP。

  「沖電気争議の記録」のページ

      http://e-union.sakura.ne.jp/okidenkisougi/index.html

 

 連合ができる前の時代、三池炭鉱争議以来の「指名解雇」が、沖電気工業の職場に襲い掛かった。

 「沖電気は 指名解雇を撤回せよ!」と闘いに立ち上がった70人を超える労働者は、当時20代から30代を中心にした青年・女性たちで、リーダー層も、「団塊の世代」より少し上の世代だった。

 なんとか「たたかいの記録」として編集したいと企画し、会社経営陣と交渉した記憶がある。

 当時は、今崎暁巳さん(ドキュメント作家)が「油に乗り切っていたので」、社の合意を得て、出版したものが『なにをみつめて翔ぶのか 沖電気・指名解雇をこえて』(著者・今崎暁巳、発行者・柳沢明朗、発行所・労働旬報社、1980年3月28 日初版第1刷発行)だ。

  190420naniwo

 

 争議終結当時(1980年代半ば)の社は、すでに「子育て・教育出版」「大型本出版」時代に入っていて、編集子も「売れる労働関係出版企画づくり」があまりできず、「現代社会シリーズ」・「女性向け企画担当」となっていたので、なかなか難しかったが、営業部長さんから「沖電気争議が終わったので企画しろ!」、と厳命されて編集・出版したのが、『ドキュメント沖電気争議 企業社会の扉をひらけ』(著者 中山森夫・矢吹紀人、発行所 労働旬報社、1987年12月15日 発行)だ。 

 WEB上には、「沖電気争議」で検索すると、まったく少ない情報しかない。なんとか一石を投じたい、次の世代に「伝えておきたいこの闘い」という編集コンセプトですすめた。

 ▽(追記:2020年9月19日)WEBに新ページをつくったおかげで、「沖電気争議」を検索すると、以下のように項目と画像が検索ページに登場しています。
  ▽画像のページ

   https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E6%B2%96%E9%9B%BB%E6%B0%97%E4%BA%89%E8%AD%B0

  200919okidenkisougi2

  200919okidenkisougi1

 

  ▽WEBページをつくったとき。

 190607web

 現代ルポルタージュ研究会で再会した、松謙さん、相原さんと相談できたので、以下のように当時出版された「パンフレット」「単行本」「写真集」その他をPDFで読めるようにした。

 http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-d823.html

 

  編集子は、1980年代末から1990年代の難しい時代の「労働組合運動の行方」について、少し心に引っかかるものをもっていたが、今回の編集・制作作業をすすめることですこし氷解した気分になっている。
 次の世代へ、「闘い、それが生きる希望を切り拓く」というメッセージとして発信したい。

 

 沖電気の職場を明るくする会

 http://e-union.sakura.ne.jp/okidenkisougi/index.html

 

◆まえがき(松本謙司)

◆PART《Ⅰ》指名解雇を許さない闘いへ――『無情 沖電気は 指名解雇を撤回せよ! 闘いの記録 争議団結成に至るまで』(沖電気の不当解雇を撤回させる会、1979年2月5日 第2刷)を発刊し、闘いに立ち上がりました。

闘いの全国化のなかで、『なにをみつめて翔ぶのか 沖電気・指名解雇をこえて』(著者・今崎暁巳、発行者・柳沢明朗、発行所・労働旬報社、1980年3月28 日初版第1刷発行)が出版され、電機産業を中心に全国各地の市民・労働者に広がりました。

もうけるための指名解雇、職場の専制支配をねらう! 『陽はまた上(のぼ)る 沖電気は指名解雇を撤回せよ』(1983年10月10日初版発行)

 

「ほうり出されて なるもんか――働く全ての仲間に贈る、たたかいと連帯のうたごえ」(レコード版、企画制作・東部合唱団  中島修一 作品、1979年2月12日発行)(未UP)

「ビデオ りんごの樹は育つ」(沖電気争議支援中央共闘会議・日本電波ニュース社

沖電気争議団、1985年11月製作)(未UP)

「こぶしくん 漫画集」(八嶋崇好・沖電気争議団〉、発行・沖電気争議団、1994年。沖電気は指名解雇を撤回せよ! と書き続けた「八島漫画集」。http://e-union.sakura.ne.jp/okidenkisougi/190622yasima-manga.html

◆PART《Ⅱ》 指名解雇の沖電気で職場からたたかいへ

『嵐に抗して』(指名解雇裁判を傍聴して仕事差別された浅利・中山さんを守る会

発行 1981年11月21日)

『この手のぬくもりを』(発行 指名解雇された仲間と浅利・中山さんを支援する沖電気の会発行 1985年2月1日)

 

◆PART《Ⅲ》 指名解雇を撤回させ 沖電機争議勝利!

『ドキュメント 赤いゼッケン 勝利報告号』(沖電気指名解雇撤回闘争 3033日 1978.11/21~1987.3/31,1987年3月31日 発行・沖電気争議支援中央共闘会議・沖電機争議団)

『たたかってよかった』(藤田庄市・森住卓写真集、編集 中村悟郎、装本 粉川道博、

発行所・日本電波ニュース社、1987年8月20日)

『ドキュメント沖電気争議 企業社会の扉をひらけ』(著者 中山森夫・矢吹紀人、発行所 労働旬報社、1987年12月15日 発行)

『陽はまた昇る 沖電気指名解雇撤回闘争の記録』(編者 沖電気争議支援中央共闘会議、発行者 生活ジャーナル、1992年1月25日発行)

 

2019年3月23日 (土)

高卒青年労働者が担った「高度成長期」の「職場の主人公づくり」――日立労働者群

 以下の文章は、「現代労働組合研究会のページ」《13/11/25+12/02》に書いたものだが、《沖電気・浅利さんのたたかいへの「柳(やな)さん」のコメント》(2019年2月26日 (火))で紹介した続きで読んでほしい。


 3冊目は、『明日へのうた――語りつぐ日立争議』(戸塚章介、大月書店、200112月)

 著者の戸塚さん(1937年生まれ、元毎日新聞労組・新聞労連出身、元東京都労働委員会労働者委員)は、現在でもブログ「明日へのうた――労働運動は社会の米・野菜・肉だ。」で健筆を振るっている。

 http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765

  190323hitati

 本書の日立争議の主人公たちは「残業拒否解雇事件の田中秀幸。中研賃金昇格差別事件の一二人。男女差別事件の五人。東京賃金昇格差別事件の四人。愛知賃金昇格差別事件の三人。茨城賃金昇格差別事件の一七人。提訴外で共同要求団に加わった三二人。茨城関連会社賃金昇格差別事件の四人。関連会社の提訴外者五人。合計八一人(男女差別事件の五人中二人は中研事件と重複)」だ。

 前出の浅利正さんも『民主文学』(19927月号)で「日立・田中裁判のあとさき」(同書所収)を描いている。


 日立争議団の皆さんがどのような人たちなのか、本書では、本文中にカッコ内に出身学校を明記している。第1章「青春」、第2章「活動」から順に拾ってみた。

 「中川進悟(都立北豊島工業高校卒)、塩沢正夫(都立中野工業高校卒)、日立工業専門学校、大川武宏(国分寺市立中学卒)、技能者養成所、日立武蔵女子高等学園、佐竹光生(愛知県立岡崎工業高校機械赤卒業)、永井孝二(中卒、日立工業専修学校)、赤川博(北海道立穂別高等学校卒)、渡部則男(北海道立下川高校普通科卒)、馬場豊彦(福島県立平工業高校卒)、宮尾則伸(都立本所工業高校卒)、中村治郎(福島県立川俣高校機械科卒)、斉藤久男(埼玉県立秩父農工高校卒)、植木日出男(兵庫県立龍野実業高校電気科卒)、大内健次(茨城県立大子第一高等学校卒)、堀啓一(山形県立酒田工業高校卒)、堀口暁子(都立武蔵高校卒)、酒井清志(長野県立長野工業高校卒)、高野勝義(埼玉県立熊谷工業高校卒)、鈴木正彦(中卒、日立工業専修学校)、真坂秀男(秋田県立矢島高等学校卒)、飯田武(日専校卒)、青田正芳(福島県立相馬高等学校卒)、井川昭雄(長崎県立長崎工業高校卒)」と。


 日本の大企業は、高度成長期に全国の農村部(都市郊外エリアも含めて)から優秀な子弟を北から南から集めて、資本蓄積(会社規模の巨大化、グローバル産業としての対外進出の原資)と大量生産・大量消費の担い手を培ってきた。

 その企業社会の変化・発展がひきおこす矛盾を一身に受けた世代が、上記に書かれた労働者階級の面々なのだ。だから戦後2回目の資本の苛烈なる攻撃を受けた、当事者だった。

 最後のインフォーマル組織による組合活動家差別事件で、現在もたたかっている明治乳業労働者の姿と、まったく共通するものだ。


 「インフォーマル組織の過去・未来」のページ

 http://e-kyodo.sakura.ne.jp/roudou/informal.htm

 明治乳業争議団員リポート記


 また「日本の農村に貧困化がなくなった」と書かれた岩波新書『戦後史』(中村政則著、20057月)が描いた時代の前の出身者なのだ。

 その後の「受験社会・競争社会の主人公」として人生を出発し、大学生17パーセントの「団塊の世代」の「高度消費社会」を受容し、企業社会への埋没する人生観とは、根本が違っていた。

  文部科学省 進学率/年度大学生数推移

 131128daigaku3


 本書では、このように語られている。

 「日立争議団の多くは、一九四〇年から四五年、昭和でいうと一五年から二〇年の間に生まれている。一九四五年は日本がポツダム宣言を受諾し、連合軍側に無条件降伏した年である。これで第二次世界大戦は終息した。戦争が終わった後の数年間に生まれた世代は、成長して「団塊の世代」と呼ばれるようになったが、日立争議団はそれよりさらに若干さかのぼった世代である。

 日立争議団の多くは戦争の末期に誕生し、幼年期を戦後の混乱とひもじさの中で過ごした。戦争は彼らの両親のような庶民の家庭生活を圧迫し破壊すると同時に、民主主義と個人尊重の思想を根こそぎ否定した。生活の破壊と民主主義の否定は戦争という同じ根っこから発生している。争議団員たちは幼年期に戦時体験をした最後の世代として、民主主義と個人尊重恩想の大切さを幼い頭に刻みつけて育った。

 そして彼らは教育基本法に基づいた新しい教育制度の下で小学校に入学する。四七年三月に公布された教育基本法は、前文・第一条で教育の目標を「民主的・平和的人間像」においた。さらに、教育の機会均等(第三条)、教育行政における不当な支配の排除(第一○条)を明記した。これは主権在民をうたった新憲法の精神であり、民主主義の徹底と個人の尊重を何よりも大切にしたものであった。後に日立争議団を形成することになる彼ら少年少女たちは戦後民主教育の躍動期の中で学び、「民主主義と平和」「個人の尊重」の思想を心に根づかせて学校を卒業した」


 社会運動史・労働組合運動史の側面から、また会社(資本)の側の苛烈なる攻撃対象になっていった背景を、次のように語っている。

 「六〇年安保闘争は、日本の大企業にとつても彼らなりに学ばされることが多かった。戦後急激に昂揚した労働運動は、二・一ゼネストの挫折、松川・三鷹などの謀略事件、レッドパージ、大型争議の鎮圧などであらかた沈静化した。労働運動の指導組織も「産別(会議―編集子)」が崩壊し、五〇年の総評誕生に見られるように反共的労使協調型労働組合が主導権を掘った。経営者たちはほっと一息ついていた。

 そこへ降って湧いたような六〇年安保闘争だ。息の根を止めたと思った労働運動が政治闘争化して復活した。なかでも経営者たちを震え上がらせたのが、大企業で働く青年労働者たちの台頭だった。青年労働者は高度経済成長を支える大量生産・大量消費の担い手だ。彼らが労働組合に理想を求め運動を活発化させるのは大企業の経営者にとって死活問題に思えた。

 大企業の経営者は青年労働者を労働運動に駆り立てている元凶は、日本共産党とその青年組織の民主青年同盟 (民青)だと決めつけた。共産党・民青の影響力を労働組合や職場活動から排除することが労使関係の安定、ひいては企業の繁栄につながると考えた。この大企業経営者の不安に悪乗りして、共産党・民青を今にも会社をつぶし暴力革命を企てる赤鬼集団のように描き出す反共グループや労務屋が横行した。どこの会社でも競って彼らが主催する反共講座等に人を送った。そしてますます共産党・民青に対する恐怖心と敵愾心を植えつけられて帰ってきた。それは実態がデフォルメ(対象を変形・歪曲して表現すること――編集子)された虚像だったが(中略)。


 本書は、高度成長期、その後の社会変化の中で、一人ひとりの社会変革への願い、職場の民主化、賃金・労働条件への同権化へむけた取り組みと、会社のさまざまな「隔離・差別政策」・解雇攻撃、男女差別政策とたたかい、長期にわたる争議を経て、20009月に和解した姿を描いている。

日本航空で「勇気をもって闘った」――小倉寛太郎さんに続いた人物(土井清著)

  以下の文章は、「現代労働組合研究会のページ」《13/11/25+12/02》に書いたものだが、《沖電気・浅利さんのたたかいへの「柳(やな)さん」のコメント》(2019年2月26日 (火))で紹介した続きで読んでほしい。

 

   2冊目は『俺たちの翼――巨大企業と闘った労働者の勇気と団結』(土井清著、文芸社、20034月)

 本書は、日本航空に入社し、「長時間労働に反対し、職場の人間関係における対等性をもとめ、会社側の一方的で恣意的命令・仕事はずしなどとたたかい、みずからの人生と労働組合の意味を描いた本」である。

 土井さん(1935年生まれ)は高卒後、社会の矛盾に気がつき、人間の尊厳を目指した姿を「【『沈まぬ太陽』が話題になったとき、日航労組は結成五〇年を迎える】という題して、「私の生涯の中で、四〇年前に、不当配転で強いられた釧路の生活がなければ、この歳になって高度経済成長下の企業とはなんであったのか、という問題を真剣に考えることもなかったかも知れない。もちろん労使関係について、若いころから自分なりに考えたり、日航労組の仲間たちと議論も交わしてきた。しかし自分の半生を通じて、改めてこれらの問題について考えてみようという気持ちになったのは、釧路の辛い体験が心に焼きついていたからだ。定年になって職場を退いた後、私は組合活動の経験を生かして、賃金差別撤回闘争に関連した裁判や争議の支援を続けている。その中で私が常に耳にし、また常に自分に向かって眩いてきた言葉がある。

190323nihonkoukuu

 「企業とは一体なんだ? 人間の可能性を破壊していくところなのか?」

 「これはわれわれ高度経済成長の時代に生きた世代に共通した難問にほかならない。しかし、実際に自分たちが生きた時代がどういうものであったのかを把握するには、自分の体験を想起しながら答えを探っても、そう簡単にできることではない。抽象的な世界を具体化して理解することは、それほどたやすいことではない。まして戦後日本という時代背景が加わると、きわめて複雑な様相をはらんでくる。

 私がそんなもどかしさを感じているとき、日本航空を舞台にした山崎豊子さんの小説『沈まぬ太陽』の連載が『週刊新潮』で始まった。一九九五年一月のことである。企業戦士の左遷がひとつのテーマとなった作品だったので、私はまるで自分のことのようにこの小説をむさぼり読んだ。小説の記述の中に、四〇年前の日本航空と自分の姿を探そうとしたのだ」と綴っている。

 前書きでは、土井さんがおかれた位置(数多くの同時代に生きた労働者・サラリーマンの仲間)を次のように描いている。

 「日航労組が政界・財界の猛攻を受けた一九六〇年代から七〇年代にかけて、実は他の大企業でも同じことが起こっていた。具体的な名前を挙げるなら、東京電力、雪印乳業、日立製作所、明治乳業、石川島播磨、凸版印刷など。まず労働組合活動への 「インフォーマル」組織を使っての介入、組合の乗っ取り、それに屈しない者に対する貸金・昇格差別、解雇、それに配転などが労働者の上に襲いかかったのだ。これに抗して地道な反撃が開始された。そしてその闘いは現在まで続いているものもある。」

 本書の柱立ては、つぎのとおりである。

 目 次

 前書き

 第1章 わが心の釧路

 第2章 消えていった海岸線

 第3章 小倉執行部の輝き

 第4章 嵐の前夜

 第5章 隔離政策

 第6章 配転事件の全面勝利

 第7章 Nの謀略

 第8章 労働運動の攻勢

 第9章 賃金差別撤回闘争に勝利

 第10章 二人の経営者

 第11章 高木社長の膿罪

 終 章 高度経済成長の光と影…

 後書き

 土井さんは「本書『俺たちの翼』は、多くの飛行機好きの仲間が日本航空に入社し、真面目に働き、低い労働条件の向上のために立ち上がった仲間たちの闘いの物語です。しかし巨大企業はその労働者たちを分断し、差別し、隔離し、苛めつくしました。でも私たちはその攻撃に負けることなく、労働組合に結集して普通に、元気に生きてきました。」と書いて本書を締めている。

 編集子がびっくりしたのは、「第7章 Nの謀略」だ。巨大企業における労働スパイとしての謀略か! 映画のワン・シーみたいだ。

2019年2月26日 (火)

沖電気・浅利さんのたたかいへの「柳(やな)さん」のコメント

 以下の文章は、「現代労働組合研究会のページ」《13/11/25+12/02》に書いたものだが、昨日書いた「たたかいのルポルタージュ 第16号」の紹介した続きで読んでほしい。

   

    http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/16-b577.html

 

 

 

 ◇電機、日本航空、日立における人間の尊厳のたたかい 

――1970年代から1980年代の労働組合運動をになった世代[大企業組合の現状を知るための情報―2]、PDF版としてUP

 http://e-kyodo.sakura.ne.jp/roudou/sorezorenoroudou-3.htm#okidenki

 

 このサイト(「現代労働組合研究会のページ」)では東京争議団、千代田総行動(のちに東京総行動)、総評全金の北辰電機などにかかわった人たちと労働組合を紹介してきた。

 今回は社会の矛盾を肌身で感じて社会運動としての労働組合運動をになった人たちの本を3冊、ご案内する。

 

 1冊目は『たたかいと愛と、これからも――短編小説とルポでつづるふたりの五十年』(浅利勝美・浅利正著、一粒書房、20134月)

 

 190226asaribook


 

 197811月、沖電気で起こった会社側の「企業競争に勝ち残れない」と、従業員の一割にあたる1500名の首切り合理化とつづく指名解雇事件があった。

 当時の状況を今崎暁巳さんは『何をみつめて跳ぶのか――沖電気指名解雇をこえて』(労働旬報社、1980年)で、「血の入れ替えを行おうとする会社の姿とその若き労働者への指名解雇の姿」を描いた。

 浅利正さん(1959年秋田県角館高校定時制卒)は職場の中から、争議を支援したことから仕事を干され、「仕事を取りもどす訴え」を東京都労働委員会に起こし、3年余にわたるたたかいで仕事を取り戻した。

 みずからもルポとして「小さな背中で見つづけたもの」などを書いている(初出は下記のルポ同人誌、本書所収)。

 

 さらに浅利さんは“1978年秋、中央労働学院の「ルポルタージュ教室」に学んだ。その時の主任講師が今崎暁巳先生だった。その年の11月、私が勤める沖電気が大量の指名解雇を強行した。今崎教室の受講生で沖電気争議団の事務所を訪問取材し、教室終了後も勉強を続けようと「現代ルポルタージュ研究会」を設立。機関誌創刊号で「特集沖電気争議」を”発行し、同人メンバーと現在『たたかいのルポルタージュ』を15号(2011年)まで発行し続けている。

 

 同誌の13号に浅利さんは「定年退職の日」(同書所収)を書き、そのあとがきに、私の大先輩の文が掲載されている。

 

 190226rupo13gou


 

 筆者の「柳さん」は、先に紹介した『たたかいのルポルタージュ』編集長として尽力し、高度情報社会・大量消費社会・企業社会に振り回されない生き方を創造するために、文化・コミュニティ・人間としての絆づくりの視点から、一人ひとりに分け隔てなく、さまざまな編集プラン・企画・構成を語りつづけていた。

 

人間を人間らしく扱え・まともな労働を

柳沢 明朗

 

 いわゆる「一人争議」として、このことを主張して差別され続けた浅利さんが、節を曲げずに誇り高い労働者の働き方を掲げきって定年退職を迎えた。人間の尊厳、人格の尊重を根底にすえた近代社会の人間関係、働き方、職場や労使関係を提起した労働人生の完結だった。

 二〇世紀の価値観を時代と企業社会に打ちつづけた技術者・労働者魂を尊敬せざるを得ない。

 退職の日に出会う元同志。仲人もしたという同志が〝裏切り″代価として得た出世。その管理者との出会いを淡々と描く退職の日に「ご苦労さん」と涙が滲んだ。なんという人生の違いだろうか。小倉さん〔小倉寛太郎=「沈まぬ太陽」のモデル〕の場合も、働き手を分断していく資本の悪しき衝動の手先が登場するが、酷似した事実に怒りが湧く。

 共通した点をもう一つみた。狂気のような異常な外地たらい回しの先々で、人の絆を作りサバンナクラブなどで、仕事を起こしていく小倉さん。同じく流罪先の職場での「仕事をしないことが仕事」の仕打ちのなかで、技術者魂を発揮して、独学で身につけたパソコンを駆使して基板設計実績データの整備をする浅利さん。その五年が誇りだという。次の担当者に引き継ぐときの「浅利さんは天才だ」という継承者のコトバが、自己の技術・労働の主人公となって創造した働き方の評価を示す場面でうれしい。

 小倉、浅利、松謙さん〔沖電気争議団事務局次長〕の三人の姿は、人生丸ごとをかけて、企業社会の論理に人間の論理を打ち込み、対峠したものだといえよう。これこそ、西ルポがいうように「近代の普遍的価値である人間の尊厳」の実現への挑戦にほかならない。

 もともと「おれたちは奴隷ではない。人間だ」という権利主張が団結の土台だ、労働運動だと、いわれ信じてきていた。英国で「組合を裏切ったことがあるか」と問われた、破廉恥な犯罪者が「オレはそれほどの悪人じゃねえ」といったという話を授業のなかで聞かされた。

 この燃えるような権利感情に打たれて生涯を労働法を商売にして食ってきた。だから三人の生涯、価値観に感動し、励まされる。

 仲間とともに生きる三人の人生・存在がなかったら、これらの問題提起や考え方、価値観が観念論、卓上の空想、願望になってしまうところだった。幸いなことに私は、夢のように描いていた労働法、労働運動が持つ役割、機能を手にしたり、見たりできた。しかも、誇るべき友人として、わが人生の価値の証として持つことができた。その継承のための価値の発見・確認と表現が今回の特集号の質ではないか。

 沖電気争議の特集で出発し、ともにルポし記録し続けたこの雑誌だからこそできることだと思うし、何よりの浅利さんへの記念号だと思う次第だ。(元労働旬報社社長・「現代ルポルタージュ研究会」顧問)

(『たたかいのルポルタージュ』一三号「あとがき」 二〇〇〇年三月)

 

 ▽追加(2013.12.06

  柳澤明朗のページ

 

http://e-kyodo.sakura.ne.jp/yanagisawa/yanagisawa-index.htm

 

 

 

 

 特筆すべきことに『たたかいと愛と、これからも』は、前半が浅利勝美さん自身の生活リアリズムにもとづく、「短編小説集」だ。

 あるページに「職場のなかでのたたかい、裁判、そして経済的苦労とさまざまあったが、子育てのうえでの苦労があまりなかったのは幸せなことだった」と書いてあった。

 イクメンと呼ばれる時代には、まったく不向きな男たちの姿も描かれている。

 私が書いておきたいと思った、「1960年代から社会変革をめざした、一人の生活者の人間として女性としての姿」も随所に描かれている。ぜひ御一読を

2018年6月 1日 (金)

総評・全国金属はなぜ変わっていったのか――青木慧著『ニッポン偽装労連』(1989年、青木書店)

http://e-kyodo.sakura.ne.jp/roudou/sorezorenoroudou-4.htm#180530zenkokukinzoku

 

180530zenkokukinzoku027

これまで本ブログで総評の民間単産はどのように「敗北してきたのか」を検討してきたが、「全国金属」については、未紹介だった。

 

青木慧さんの『ニッポン偽装労連』(1989年、青木書店)を再読したら、《たたかう労働組合つぶし 「民主化運動」》の中に、「佐竹全金委員長のもとで筆頭副委員長をつとめていた中里忠仁金属情報機器労組委員長」の聞き書きがあった。

全国金属の大手企業内組合が、JCや自動車関係の同盟労組に「丸め込められた」様子が語られている。

 

「全金には、大企業ではありませんけど、中小の鉄鋼も電機も自動車も造船もあるということですから、業種的にはJCとつながりが深い単産ですよね。他方、同盟の方も金属同盟というのがあって、同じような業種を持っているわけです。しかし、同盟の方にあまりアタックしないで、総評・全金の方に焦点を当てて、七八年ごろからいろいろと介入というか誘いをかけてきた。

それは最初、全金の中央本部というよりは、大手支部ですね。シチズン時計とかセイコー、横河電機とか山武ハネウエル、東京計器とか、中京地区の豊田自動織機とかね。全金の大手支部と目される、かかわりの深いところを、幹部をとおしてね、JCとの結び付きが急速に強まってきたんです。」

(中略)

「そういう大組織の幹部というのは、たたかうだけでは組織を守れないと。これは労使の対立とか対決でなくて、協調してやっていくべきだという思想が、だんだんとJCの影響が強まるにしたがって、全金の中枢部が、そうなってきた。それが、全金という一つの単産が、だんだん右傾化する、当初の一つの特徴だね。比較的に階級的であり、権利闘争を大事にしてきた単産がなぜ右傾化してきたのか、だいたいそういう経過ですよ。」

(中略)

「それまでは波風がたたなかったのが、それらの大手支部委員長あたりから、原案に対して修正を求めるようなことが出てくるわけですよ。

 たたかいの内容を、文言上で非常に歪めてみたり、ストライキという文言をできるだけ削ってみたり、「統一闘争」という表現を削ってみたりね。資本や権力に対するたたかい方、それについての行動も弱める修正を求めるわけですね。それはJC路線に間違いないし、同盟方針にも近いやつなんですね。

 そういうのが、平気で組織だって出てくるわけです。東京地本の大手支部委員長あたりが中心になって、中央本部に方針の修正を要求するようになったのです。そういう圧力をかけて方針を変えさせようとしたけども、当時の佐竹委員長もわれわれも、それには応じなかったわけですけど、そういう力が全金をじょじょに蝕んでいったということですね」

 

以上の文章を読んで、下からの池貝鉄工などの首切り、北辰電機・山武ハネウェルなどのインフォーマル組織等による攻撃、それに加えて大手支部内での「労使協調への陥落」などが相まって、「全国金属の変化」が生まれたようだ。

 

▽全国金属の歴史的紹介

http://e-kyodo.sakura.ne.jp/roudou/sorezorenoroudou-4.htm#zenkin1

 

 

 

20190805日:
「職場レベルの諸問題の処理方式(承前)――全国金属における関連政策の分析」(嶺 学 『社会労働研究』、法政大学社会学部、22(3・4), p63-125, 1976年03月)

20140701日:全国金属における闘いの歴史 書評:柳田勘次著『闘えなくなった企業別組合』(早川征一郎、『大原社会問題研究所雑誌』20091月号、No.603)

労働争議と単産の役割――清水明、第38回東京労働争議研究会

 金属機械反合闘争の到達点と発展方向、石川武男、全日本金属情報機器労働組合(IMJU)副委員長、労働法律旬報、NO.12891992610

 産業別個人加盟労組運動の経験――全金品川支部地域支部の事例、長谷川義和、大原社会問題研究所雑誌 / 法政大学大原社会問題研究所 編、NO.348198711 

 

20140701日:『追悼・岡安政和』(PDF版 「追悼・岡安政和」編集委員会、19826月) (一部訂正:2014.07.02 

 

20140701日:『社会のしくみと労働組合(増補改訂版)』――金属労働者の教科書、
全国金属労働組合、1971 9 25 日第1 刷発行、1976 2 10 日増補改訂版第1 刷発行


 ▽

「日本中の労働組合を破壊した「インフォーマル組織とは何か」のページへより。

http://e-union.sakura.ne.jp/union/informal.html

〔6〕全国金属・金属機械反合におけるたたかい   (2014.05.01更新)
 [1] 『ねらわれた組合――インフォーマル組織とどう闘うか』(金属反合闘争委員会編・発行、1983年7月1日、初版1万部)  【原本募集中】
 [2] 
金属労働戦線におけるインフォーマル組織――[原題:「ねらわれた組合」からの脱出――インフォーマル組織とたたかう、大木兼次郎・金属機械反合インフォーマル対策委員会、賃金と社会保障 879号                       1983-12-10   (PDF)
 [3] 全金山武ハネウェルのたたかい――弁護士法人 けやき総合法律事務所のサイトより
   
http://www.keyakisougou-law.jp/affairs/entry-44.html

 

▽対抗的労働組合運動の模索もご参考にしてください――◇金属労働戦線の現代的課題を追求

http://e-kyodo.sakura.ne.jp/roudou/sorezorenoroudou-4.htm#jmiu1

 

労働組合運動の再生・強化と日本型産業別組合の可能性 小林宏康[3]、特集●労働運動の再生と産業別組織の課題、「労働総研クォータリー」、2015年夏号(20157月発行)(PDF版)

非正規・未組織労働者の組織化と産業別組合の強化―すべての労働者のための労働組合へ―、労働総研クォータリーNo.7677、小林 宏康[2 ](PDF版)

全国金属―JMIUの産業別統一闘争―「日本型産業別組合の可能性」について―、小林宏康[1](PDF版)

結成20周年を機に、真の産業別労働組合へ――JMIUの20年の歩み


 ◆総評・中立労連内民間労組の「変化」を紹介してきたのでこれもご参考に。

▽鉄鋼労連

八幡製鉄所のインフォーマルグループ――インフォーマル組織物語Ⅷ

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-0d95.html

 

▽合化労連

化学産業における労働組合の旗を守った人たち[20162 4 ()

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-834d.html

 

 ▽全造船(中立労連)

 『あたりまえの労働組合へ』・全造船石川島――議論は続く。[2016710 ()

 http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-7f4c.html

 

『あたりまえの労働組合へ』(全造船石川島分会・佐藤芳夫著)が書いていたこと[2016531 ()

 http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-bc6f.html

 

長崎造船社研・左翼少数派労働運動の軌跡 [201510 9 ()

 http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-3925.html

 

 

 

 

2017年8月 7日 (月)

大企業・総評型労働組合はどうなったのか

 追記(2017.09.09

 連合、残る「同盟VS総評」 民進とも足並みそろわず、「日本経済新聞」(2017/9/1付)

  https://www.nikkei.com/article/DGKKZO20637800R00C17A9EAC000/

 

 170905rengo

 上記の図版をめぐって、facebookでの要 宏輝さん、早川 行雄さん、谷川 眞さん、服部 一郎さん、Tarou Oohasiさんのやり取りが面白い。転載したいが、著作権があるので下記のページに。

https://www.facebook.com/hiroaki.kaname/posts/1562513923837446?pnref=story

 

  ▽追記(2017.09.09

 要宏輝・「kanameさんのブログ」――総評解体・連合結成、30年目の「真実と現実」(Published by kaname on 7 12th, 2017

 http://kaname.news.coocan.jp/?q=node/172

 

 ▽ここから本文。

 このブログで書いてきた文章を編集して、一挙に読めるようにした。

 若い世代には、「総評」とはなんだったのか、と読んでほしい。

 

 現代労働組合研究会のページ

 http://e-kyodo.sakura.ne.jp/roudou/union-top.html

 

  http://e-kyodo.sakura.ne.jp/roudou/sorezorenoroudou-3.htm#daikigyou-zenbun

 

20111224 () 〈連合運動は「社会のバリケード」になれるか〉――現代労働組合研究会(Part 

2012417 () 「総評系の元労働オルグ」が書いた本を紹介―現代労働組合研究会HPの更新

12/04/17 地域共闘・中小運動・コミュニティユニオンのページの御案内

12/04/17 私たちの労働組合運動史論・あれこれ

20125 9 ()「国鉄労働者1047人の解雇反対闘争」「芹澤寿良のページ」

更新2012522 ()

「国鉄労働者1047人の解雇反対闘争」における学者・文化人支援のインターネット・時系列的紹介

2012814 () 建交労雑誌に転載・国鉄労働者解雇撤回闘争――芹澤寿良のページ更新

2013111 (芹澤寿良のページをリニューアル――現代労働組合研究会

201211 9 () 困ったもんだナショナルセンター「連合」――芹澤寿良のページ更新

13/05/30 ある国鉄労働者のメッセージ

ユニオンみえは労働運動の次のステージに向け前進しよう 国鉄労働組合 四日市分会分会長 市川 智

13/05/04 国鉄闘争と労働界再編で学ぶこと

――原題と同じ、元長崎国鉄共闘会議議長・中島義雄(郵政ユニオン長崎)月刊「科学的社会主義」(2012年4月号)

13/03/29  元総評系労働組合リーダーが呼びかける運動継承の文書

20138 7 () 「内山光雄さんを偲ぶ」を寄贈されて

20141 8 () 連合大会(2013年)でどんな議論をしているのか――芹澤寿良のページ更新

2014713 () 産業別単一組織とは(JMIUの経験)

2014713 () それぞれの労働組合運動史・論Part

非正規・未組織労働者の組織化と産業別組合の強化―すべての労働者のための労働組合へ―、労働総研クォータリ-No.7677、小林 宏康  (PDF版)

全国金属―JMIUの産業別統一闘争―「日本型産業別組合の可能性」について―、小林宏康 (PDF版)

〔第2部 日本の産業別組合組織――事例研究、労働運動総合研究所 全文〕 (PDF版)

2015720 () 路面電車を守った労働組合―総評の伝統は消えていない

2015913 () ユニオン・ショップ、労働組合の選択の自由、連合内「閉じこもり論」、連合内「階級的民主的強化の担い手論」をめぐって

201510 9 () 長崎造船社研・左翼少数派労働運動の軌跡

12/12/22 new 少数派労働運動の歴史の御紹介――『少数派労働運動の軌跡――労働の現場に生き続ける人びと』(「少数派労働運動の軌跡」編集委員会編、金羊社、四六判、20079月、1990円)

20162 4 () 化学産業における労働組合の旗を守った人たち

2016217 () 図説で見る:GDPも実質賃金も下げるアベノミクス

2016531 () 『あたりまえの労働組合へ』(全造船石川島分会・佐藤芳夫著)が書いていたこと

2016710 () 『あたりまえの労働組合へ』・全造船石川島――議論はつづく

 

 追記(2016.12.01)三菱長崎造船第一組合を描いたドキュメントがある。

 『三菱帝国の神話――巨大企業の現場・労働者群』(今崎暁巳著、労働旬報社、19772月刊)(PDF復刻版)

 http://e-kyodo.sakura.ne.jp/imazaki/index.htm

  序 章 三菱は国家なり――神話を支える巨大企業の実相と体質

  第1章 人間・職場の破壊――分裂が職場と労働者にもたらしたもの

 第2章 三菱帝国の支配のアミ――ピラミッド支配を支える考え方・組織とその実践

 第3章 人間の働く職場をめざして――不況・合理化下で変わりはじめる職場

20161216 () 『旬刊社会通信』の存在を知ってよかった

 ◆補論1 20131023 () 大企業組合としてフォーマル化したインフォーマル組織

 ◆補論2 造船産業における少数派運動、造船問題研究家・小川善作、『労働法律旬報』(1186号)、1988―2―25

 ◆補論3  それぞれの労働組合運動史・論 1

 ●12年04月17日:『地域ユニオン・コラボレーション論 オルグから見た地域共闘とは』(小野寺忠昭著、発行・インパクト出版会 、2003年)
パラマウント製靴共働社、『協働の未来に光あれ! パラマウント製靴の歩みと労働者生産協同組合へ』(シーアンドシー出版刊、1995年8月、B5判並製、400頁)
『転形期の日本労働運動――ネオ階級社会と勤勉革命』(東京管理職ユニオン、緑風出版、2003年12月)  

 

●12年04月18日:松井 保彦 著『合同労組運動の検証──その歴史と論理』の書評と紹介
   1 高須裕彦 大原社会問題研究所雑誌 No.627/2011.1
 2 呉学殊  日本労働研究雑誌、82 No. 609/April 2011
 3 早川征一郎 ((財)日本ILO協会編『世界の労働』2010年8月号、第60巻8号)                                                                    

▽追記(2018.01.22) 編集子は日本の労働問題・労働運動史は「潮流別にある」という前提で見てはならないという立場にあるので、以下のような事実も紹介してきた。

 「企業別組合は日本の『トロイの木馬』」(宮前忠夫著)をめぐって[20171118 ()

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-e777.html

 大企業・総評型労働組合はどうなったのか[20178 7 ()

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-5d5d.html

 『旬刊社会通信』の存在を知ってよかった[20161216 ()

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-cb95.html

 化学産業における労働組合の旗を守った人たち[20162 4 ()

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-834d.html 

長崎造船社研・左翼少数派労働運動の軌跡 [201510 9 ()

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-3925.html 

 

2016年12月16日 (金)

『旬刊社会通信』の存在を知ってよかった

本ブログで化学労働戦線における労働組合運動の歴史を「化学産業における労働組合の旗を守った人たち」(20162 4 ())として、紹介してきた。

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-834d.html

 

少なくない人たちが、検索等でアクセスしてきている。

検索キーワードの一つに「全昭和電工 千葉 山下俊幸」で本ブログに到達した人の「逆検索」でWEB上、登場してきたのが『旬刊社会通信』だった。

編集子には、未知の情報誌だった。

 http://shakaitsuushin.cool.coocan.jp/mokuji/mokuji.html

 

社会主義協会(向坂派)『社会主義』と社会主義協会(太田派)『社会主義』は、出版社時代から資料交換で常に棚に入っていたので、読み続けていたが、本誌は、なかった。編集子は担当したことがなかったが、『日本労働年鑑』(大原社研、労働旬報社)には、参考資料として、(8)社会通信社『旬刊社会通信』がある。

 

編集・発行人の滝野忠さんが書かれた、文章があるので以下にUPしてみた。

 ■巻頭言■

「社会通信」の三十九年とこれから

http://shakaitsuushin.cool.coocan.jp/mokuji/1227-20161101.pdf

 

『社会通信』は「社会正義上許すべからざることに筆評を加えることをむねとしたい」「社会のゆくえを曲げて報じて己を利するものを嫌う」との創刊の辞で出発した。創刊は一九七七年十一月一日である。今号(二〇一六年十一月一日付)で満三十九歳通巻一二二七号となった。本誌は今号をもって「紙」誌を閉じ、インターネット時代のホームページへ移行する。「通信」の三十九年は〝サンザンクロウ〟した時代となったけれど、編集子にとっては楽しく豊かな年月であった。向坂逸郎、岩井章、灰原茂雄氏等、戦後日本の社会主義、労働運動の巨人から権勢に媚(こび)偏狭に傾く風潮への批判的精神、さらに社会的正義とは労働者階級の精神的、文化的教養を高め、労働者が自覚して次の新しい社会創造に資する活動であることを、勉強会、日々の生活と会話から学び、己の糧とできた。 

 

私は丈夫な身体をもって生まれなかったらしい。母は「子どもの頃は本当に苦労した」とよく語っていた。その私が、編集者、物書きとして不規則、不摂生な四十年余、大きな病もなく「通信」を一つの欠号、遅れもなしに発行できたことは、なによりの喜び、誇り、自慢である。「紙」誌からホームページへの移行を伝えてから、読者からのおたよりに一部掲載したが、「ぼくは創刊以来、私は『進路』の時代からの読者、さびしいけれどホームページでさらに励まして」のおたよりを数多くちょうだいしたことも望外の喜びである。月刊誌は重く大きく深い理論や情勢をとりあつかう、「旬刊誌」は月刊誌、日刊紙との間にあって、大きな問題であれ本質を損ねず簡潔、明快、かつやさしい記述が求められる。こうした読者の要望に寄りそう執筆者、投稿者の努力が私を助けてくださった。

 

四十年余、全国を旅した。行ってないのは沖縄だけだ。時代は厳しく揺れ動き、己の世界観、価値観を揺さぶられることも少なくなかった。向坂、岩井、灰原氏が存命時の社会党攻撃(一九七七年~二〇〇三年)、中曽根臨調行革〈一九七九年~一九八七年)、国鉄分割民営化攻撃と国家的不当労働行為による国鉄労働者の首切りと解雇撤回闘争〈一九八三年~二〇一一年)、労働運動再編成(一九七九~一九八七年)、社会党解党と新社会党結成(一九九三年~九六年)等は、三人に指示を仰げばすんだ。困難は増した。一九九〇年を前後した社会主義諸国の崩壊、世界的な反革命の時代の到来である。一人ひとりが己の考え方、世界観を問われた。これら大きな出来事、事件、活動を取材、さらに渦中の労働組合員と目的を共通する活動をつうじ、歴史のダイナミズムを直接体験したこともそうである。これら諸体験の総合として現在の権力(安倍自民党政権)がある。歴史は、権力者はその権力を維持し、己の願望を果たすためには、何でもすることを示す。

 

反動政策は、生活の不安定性をいや増し、反動を正そうとする作用を国民の間にもたらさずにはいない。それは『資本論』が説くところである。この立場をさらに鮮明にし、ホームページで継続したい。当面は、『通信』の三十九年をともに考えたい。

読者諸氏の生活体験とこれからへの活動の投稿をお願いしたい。(滝野忠)

 

『旬刊社会通信』は、発行(1977111日)以来の誌面をWEB上で読めるようになっている。すごいことだ。

すべて読むのは大変だが、最初の2年分、途中の年、最近の1年分を読んだ。

中身も、国労のたたかい、自治労の人、元全逓(いまJP労組の人)、民間企業の労働者など、全国各地からの読者通信など、インターネット上にはなかなか登場してこなかった、人々の実像がある。

特に「総評・社会党時代」を担った人たちの現在が、少しわかる。


  社会党については、素人だが、1980年代のインフォーマル組織に関して編集していたとき、新潟の日本ステンレスの青年たちから、首都圏の社会党関係の争議指導部を紹介してほしい、と頼まれたことがあるが、「争議は東京地評や本社のある地区労を訪問したら」と答えたのを覚えているが、どうだったのか。

 

検索のきっかけだった「全昭和電工千葉工場闘争」について、まとめている山下俊幸さんの文章は、次の世代が「職場の労働運動」をつくりだすとき、参考になる経験をまとめている。

全昭和電工千葉工場闘争と今―すさまじい「合理化」攻撃の中で―

 http://shakaitsuushin.cool.coocan.jp/mokuji/1217-20160601.pdf

 

この文章を読んだとき、「下山房雄のページ」にUPした【書評】石河康国著『労農派マルクス主義
――理論・ひと・歴史』(大原社会問題研究所雑誌) №6422012.4)を思い出したが、少し複眼的に読まないといけないのでは、と思った。

  http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/642/642-06.pdf

 

 ◇発行所=社会通信社発行人=滝野忠 ホームページ

http://shakaitsuushin.cool.coocan.jp/

e-mail: shakaitsuushin@nifty.com

東京都渋谷区本町6丁目282904 電話・FAX(03)32995367

 

 ▽(追記)編集子は日本の労働問題・労働運動史は「潮流別にある」という前提で見てはならないという立場にあるので、以下のような事実も紹介してきた。

 

 「企業別組合は日本の『トロイの木馬』」(宮前忠夫著)をめぐって[20171118 ()

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-e777.html 

 

 大企業・総評型労働組合はどうなったのか[20178 7 ()

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-5d5d.html 

 

 化学産業における労働組合の旗を守った人たち[20162 4 ()

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-834d.html 

 

長崎造船社研・左翼少数派労働運動の軌跡 [201510 9 ()

 http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-3925.html 

 

大企業組合としてフォーマル化したインフォーマル組織[20131023 ()

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-d631.html 

 

 どこに消えた『サスコミ』グループ――インフォーマル組織物語Ⅸ[20121017 ()] 

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-d4b4.html

 

2016年7月10日 (日)

『あたりまえの労働組合へ』・全造船石川島――議論は続く。

  前回の小論[『あたりまえの労働組合へ』(佐藤芳夫著)が書いていたこと]がある人の「twitter」で紹介さて、1日に200近いアクセスがカウントされた。

 若い世代の中でも関心を持つ人もいるのがわかった。

 

 そのうえで先日、知人から、全造船石川島の事例から「大企業における一企業一組合」を論じている本を紹介された。

 その本は中村浩爾・寺間誠治編『労働運動の新たな地平』(かもがわ出版2015813日)で、その《第Ⅱ部 各論――労働現場の諸相 日本的労使関係と大企業の労働組合――「ユニオンショップ」制と少数派組合の事例から 桜井善行 》だ。

 

 160710roudouundouno_2

 

 1 戦後日本の労働組合運動と組織の概観 

 2 ある大企業での実践―石川島播磨とトヨタ自動車(関連企業)の事例

 3  「一企業一組合論」の検証

   著者は、桜井善行(さくらい・よしゆき)さん。

 名古屋市立大学大学院経済学研究科研究員。企業社会・格差社会・企業福祉論。愛知労働問題研究所事務局長。主な著書に『逆流する日本資本主義とトヨタ』(税務経理協会、2014年、共著)など。

 

 

 桜井さんは、潜り込んでいった左派活動家の人たちの姿を「協調主義的な労働組合内部での闘いのあり方や多数派をめざすという大義名分への懐疑や葛藤があったことは確かであろう」としているが、「大企業内の左派活動家の多くは、職場の主要なポジションからはずされ、昇級・昇進でも不当な扱いを受け、孤軍奮闘はするものの、労働組合組織や職場内に影響をあたえることなく定年を迎え、大企業職場から去って行った。IHIの事例に日本の民間大企業職場の左派活動家の一つの軌跡を見いだすことができる」としている。

 
  次に「(2)トヨタ自動車・関連企業の事例」を書いている。

 
これは、2006122日に「全トヨタ労働組合(ATU)」(既存の御用組合・トヨタ自動車労働組合とは違い、正社員、下請け、孫請け企業の社員、外国人、期間工、パートなどトヨタ関連会社で働く者はすべて加入できる間口の広い組合)が結成された話題が一部のジャーナリズムで紹介されていたことを覚えている人も多いと思う。 いつか、紹介してみたいと思っている。

 小文では、残念ながら外す。

   https://www.mynewsjapan.com/reports/582
  https://www.mynewsjapan.com/reports/589

 

ある大企業での実践――石川島播磨とトヨタ自動車(関連企業)の事例

 ここでは本章の目的である日本の民間大企業内の協調主義的労使関係の実態を検証するために、二つの代表的な大企業内での異議申し立て活動を行っていた企業内反対派の左派グループの活動事例の考察をする。

1)石川島播磨(IHI)の事例

 まず取り扱うのは造船重機産業である。現在こそ斜陽化・衰退がいわれるが、高度経済成長を通して造船重機産業は日本資本主義の基幹産業であった。全造船(全日本造船機械労働組合)は、その造船重機産業の産業別組織であった。自動車や電機や鉄鋼などのIMF・JC(国際金属労連日本協議会)に参加する産別組織の多くは、資本・経営と協調派による時間をかけた「活動」によって労働組合執行部から左派グループ放逐に成功した。だが造船職場の多くは、一九六○年代半ばから一九七○年代にかけてまだ「全造船」(中立労連加盟当時)が労働基本権(とりわけスト権など)を行使し、それなりの組織力・戦闘力を有していた。それに対して造船職場の会社派グループの多くは「全造船」を脱退、「造船重機」(同盟加盟当時)に加入という戦術をとった。ただ三菱重工長崎造船所の場合は全造船が少数派になってもその旗を守って闘ったことで知られる事例だが、ほとんどの造船職場では一九七○年頃には会社の意向を受けた協調派が指導権を確立していた。それに至るには、会社派労組幹部による企業内での左派放逐のためのありとあらゆる「策動」が行われてきたのはいうまでもない。この点にこの点については金杉秀信(二〇一〇)に詳しい。

 【引用者の注】労働組合とは何か―「インフォーマル組織」とは何か
  
 http://e-union.sakura.ne.jp/union/informal.html

 山本潔、『金杉秀信 オーラルヒストリー』、金杉秀信著、大原社会問題研究所雑誌 No.627/2011年1月
  
http://e-union.sakura.ne.jp/union/150813yamamotokiyosi.pdf

 

 IHIの企業内では一九七〇年当時、少数派になったとはいえ、全造船脱退、造船重機加入方針反対の左派グループを支持する労働者群がまだ存在した。だが三菱重工長崎造船所とは対応が異った。そのとき、IHIの企業内の左派活動家グループは、①全造船の旗を守り、造船重機には参加しない立場と、②全造船脱退は不本意であるが、機関決定に従って造船重機に参加してその中で闘うべきだとする立場とに分かれた。前者は、一万人を超える企業内でも圧倒的な少数派組合として数十名で孤軍奮闘し、全造船分会の旗の下、団体交渉を継続して、退職した後でも、団交権を確保して退職者の利益を守ってきた。一方後者は、組合員投票結果に従って造船重機に合流して自らの主張を貫くこととした。当時の後者のグループはまだ三桁の組織を維持し、困難でも闘うことが仲間内では確認されていた。

ところが後者のグループを待ち受けていたのは、企業内での配置転換、昇進、昇給、賃金などでの様々な差別であり、活動そのものを困難にさせていった。職場内での活動も、活動家の仲間同士が分断され、一般労働者との対話すらままならず、仲間はずれにされ消耗していった。彼らは時期的にはかなり後になってから「石川島播磨思想差別裁判」に原告として訴訟を起こした。この裁判闘争では二○○○年に提訴、二○○四年にやっと勝利和解を勝ち取っているが、そのとき彼らの多くはすでに現役をリタイア、もしくは定年直前であった。その担い手の一部が、退職後に「重工業労組」を結成しているが、退職前後になってやっと新労組結成に至った経緯・理由については、多くは語られてはいない。彼らの中には協調主義的な労働組合内部での闘いのあり方や多数派をめざすという大義名分への懐疑や葛藤があったことは確かであろう。

 歴史に「もし」は使うべきではないが、当時この活動家集団と全造船に残った集団とは「学校」系列は違ったが、共に全造船の旗を守る側にたっていたなら、資本・経営からの攻撃にさらされても違った展開になったであろう。少なくとも全造船の旗を守った三菱重工長崎造船所並みの異議申し立てと抵抗を行い、陣地を死守することが出来たであろう。組織を割ったのは、右派・会社派のグループであり、大義名分は少数派にあった。だがこの企業に限らず、大企業内の左派活動家の多くは、職場の主要なポジションからはずされ、昇級・昇進でも不当な扱いを受け、孤軍奮闘はするものの、労働組合組織や職場内に影響をあたえることなく定年を迎え、大企業職場から去って行った。IHIの事例に日本の民間大企業職場の左派活動家の一つの軌跡を見いだすことができる。

 

 さて、桜井さんは、「一企業一組合」論だけでなく「複数主義も認知されるべき」だとして、この運動が進まないのは、「勇気・確信の欠如、政治的方針の影響」からとしている。

 本書全体を紹介できないが、ぜひ読んでほしい。残念ながらWEB上には書評が出ていないので、「現代労働組合研究会のページ」にはUPできない。

「現役の労働運動家」の人たちには、「脱○○○○主義」で奮闘してほしい。

 編集子は「日本国憲法にもとづく労働組合宣言」のみが、青年・非正規労働者・女性労働者・「奈落の貧困老人へ突き進んでいる中高年労働者」へ勇気を与えると確信している。

 ▽追記(2017.04.30)

「希流」さんのtwitterより。

  全造船関東の結成大会

 https://twitter.com/kiryuno/status/833167858032992257

 

 ▽追記(2016.11.01)

   全造船機械の加盟ナショナルセンターは連合。全造船機械の組織状況は厳しく、組織形態を造船以外の労働者も加盟できる合同労組とするも、なおも組織状況は厳しい状態が続き2015年9月4日から翌日にかけて開催された大会で組織の解散を決定、翌年9月9日に開催された84回大会において解散した.。(Wikipedia より)

 

 「社会新報」(2016年9月21日号)で報道。

 http://www5.sdp.or.jp/topics/2016/09/22/%E7%B5%84%E5%90%88%E5%93%A1%E3%81%AE%E4%BB%8A%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%AB%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB/

 

 全造船機械労組(全日本造船機械労働組合、永田利治委員長)は9日、都内で開いた結成70周年の第84回定期大会で解散した。全造船の結成は46年9月1日。

190915zenzousen

 大会に引き続いて開いた報告会のあいさつで永田委員長(大会まで)は、第2組合結成・組織分裂攻撃や海運・造船不況を受けた合理化の歴史を振り返り、「全造船機械の歩んできた道程は苦難、苦闘の連続」と述懐。組合員数の減少から中央産別組織としての維持存続は困難との結論に至ったことについて「これ以上先送りできない課題と受け止め、総合的な視点観点に立ち責任ある判断、決断として下した苦渋の選択」と述べ、理解を求めた。その上で、これまでの組合員、先輩組合員、その家族の労苦と共闘関係者の支援に敬意と感謝の意を示し、「今後も組織を存続し運動を継続する各分会に対して変わらぬご指導ご鞭撻(べんたつ)、ご支援ご協力をお願い申し上げる」と述べて、報告を結んだ。

 来賓あいさつで社民党の又市征治幹事長は、「全造船の歴史は合理化との闘いの歴史」と述べ、職場の闘いに加えて対政府制度政策闘争、平和と民主主義を守る闘いにも奮闘してきた全造船の歴史に敬意を表明。「70年にわたって闘ってこられたこの歴史に誇りを持って、これからのさまざまな社会における取り組みにご参加をいただきたい」と述べ、組合員の今後の取り組みにエールを送った。


 (追記)造船産業における少数派運動、造船問題研究家・小川善作、『労働法律旬報』(1186号)、1988―2―25
 

  ▽追記(2016.12.01)三菱長崎造船第一組合を描いたドキュメントがある。

 『三菱帝国の神話――巨大企業の現場・労働者群』(今崎暁巳著、労働旬報社、1977年2月刊)           (PDF復刻版) 

   http://e-kyodo.sakura.ne.jp/imazaki/index.htm

 序 章 三菱は国家なり――神話を支える巨大企業の実相と体質 

  第1章 人間・職場の破壊――分裂が職場と労働者にもたらしたもの 

  第2章 三菱帝国の支配のアミ――ピラミッド支配を支える考え方・組織とその実践 

  第3章 人間の働く職場をめざして――不況・合理化下で変わりはじめる職場

 

  ▽本ブログで紹介:長崎造船社研・左翼少数派労働運動の軌跡

  http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-3925.html

  ▽「造船産業合理化から地場産業を守る闘い」(元全日本造船機械労働組合中央本部書記長 大河内俊雄、静岡社会文化協会) 

 http://e-union.sakura.ne.jp/tokyo-sougidan/index.html#ronbun-kenkyusya

 ▽『未踏の挑戦 造船産業再編合理化の航跡』(全日本造船機械労働組合編・労働旬報社・1981年9月1日発行)⇔本書は、先輩の加藤芳雄さん(故人)が編集した。

2016年5月31日 (火)

『あたりまえの労働組合へ』(全造船石川島分会・佐藤芳夫著)が書いていたこと

  ▽追記(2116.11.01)

 全造船機械の加盟ナショナルセンターは連合。全造船機械の組織状況は厳しく、組織形態を造船以外の労働者も加盟できる合同労組とするも、なおも組織状況は厳しい状態が続き2015年9月4日から翌日にかけて開催された大会で組織の解散を決定、翌年9月9日に開催された84回大会において解散したWikipedia より)。

 

(追記)造船産業における少数派運動、造船問題研究家・小川善作、労働法律旬報(1186)、1988―2―25

 

  ▽ここより本文。

  1970年代初頭、まだ総評が元気で国民春闘に向かって突き進んでいた時代、1冊の労働組合関係書が出版され、注目された。

 タイトルは、『あたりまえの労働組合へ』(19734月)。

 著者は佐藤芳夫。

 

 160528satou1

 

 本の奥付では、以下のように略歴が出ていた。

1928年 東京都浅草に生れる

1948年 石川島播磨重工に管理工として入社

1951年 中央大学専門部経済学科(二部)卒業

1952年~全造船機械労組石川島分会の執行委員、三役などに専従活動のはか,石播重工労連中央執行委員長、全造船機械労組中央執行委員長、中立労連議長など歴任

19713月 職場復帰

現 在 全造船機械労組石川島分会委員長

 編集子はある労働雑誌の編集者になったばかりのころで、この業界でも有力な『月刊労働問題』がまだ出ていたころだったが、当時でも数少ない労働組合運動の関係書だった。

 それも亜紀書房という名前の出版社で、「ドキュメント東大闘争」として1969年に『砦の上にわれらの世界を』を刊行した出版社だった。

http://www.akishobo.com/company/

 その前後、同社から<藤田若雄・清水一編>で、5冊の「労働問題シリーズ」と銘打って以下のような出版もされた。

 既成革新からの離脱』(1970年)

総評のゆくえ』(1970年)

『新左翼の労働組合論』(1971

『続 新左翼の労働組合論』(1974年)

『労働運動の合法的領域』(1972

 さて『あたりまえの労働組合へ』は、資本による全造船石川島分会の解体攻撃とのたたかいを描いた本だった。

著者の佐藤さんは、経歴によると「全造船機械労組中央執行委員長、中立労連議長などを歴任」した「単産委員長」を担った人だ。

そのひとがなぜ? という疑問から、本を読み始めた。

なぜ出版したのか、その目的は(まえがき、あとがき、目次)、以下のページに収録してある。

 

  《それぞれの労働組合運動史・論Ⅰ のページ》

 

 1960年代の三菱長崎造船、横浜造船、それにひきつづく資本・同盟の解体攻撃への怒りはもとより、「石川島共産党のもぐり込み戦略」を許せなかった、その点を当時(後世)の活動家諸氏に伝えたかったようだ。

 編集子も東京争議団関連の集まりで、全造船横浜分会のSさんから話を聞いたことがあるが、「石川島」関係者が争議団運動レベルで活動し始めたのは1980年代後半だったと思う。編集子が別の分野の雑誌・単行本編集に代わったあとであった。

 どのような総括を行っているのか、文書になっていないので、外部の人間としては不明だ。

木下武男さんは『格差社会にいどむユニオン――21世紀労働運動論原論』(花伝社、2007920日)で以下のように、その意味を書いている。

http://e-kyodo.sakura.ne.jp/roudou/120112yunionsyopu.htm

全造船の調査部長を務めたことがある小川善作は、労働運動「第二期」に続発した労働組合の分裂・脱退問題を、全造船と造船総連との関係で体験した。一九七〇年、石川島播磨分会で全造船からの脱退問題が起きた。「脱退賛成七五〇〇、反対二九〇〇という結果で全造船脱退が決まった」。全造船は、脱退に反対してきた「全造船を守る会」の組合員に対して、「分会組織の維持指令」を出したが、分会に残ったのは三〇名ほどであった。「左派と言われた人たちが、この脱退をあるがままに承認して、全造船と袂を分かっていくという経過」をとった。これこそが、企業別組合の主導権を階級的民主的潮流なるものがいつの日か握るだろうという「展望」のもとでの悲劇的な典型事例であった。小川善作はその後、「いずれ職場の多数派になるといっても、それは百年河清をまつに等しい」(小川善作「造船産業における少数派運動」「労働法律旬報」1988225日号)と語った。

(注)造船産業における少数派運動、造船問題研究家・小川善作、労働法律旬報(1186)、1988225

 1980年代初頭、「インフォーマル組織へ対抗する人たち」に関して、大企業職場の労働状況を取材したくても、民間大企業職場に「社会党系の人物はいなくなり」、「○○○委員会という共産党の看板を掲げていた集団」への取材は、ほとんど不可能だった。

 佐藤さんは「続編」として、「(「人間としての尊厳をもとめて――『小沢一郎の暗躍を支える連合』、第1部 佐藤芳夫稿 第2部 対談:中野洋、社会批評社」、199312月)を書いている。

 その奥付の肩書は、「現在 全国労組交流センター代表運営委員」となっている。

 本書の第2部は「動労千葉委員長の中野洋さん(当時)」との対談だ。その〈はじめにと目次〉も上記ページにUPした。

 

  佐藤芳夫さんは、20061125日にお亡くなりになっている。

 全造船石川島分会は今でも旗を守っている[大会写真、企業在籍はいませんがOBで全造船の旗を守っています(石川島分会)より〕

 136-0071
東京都江東区亀戸7-8-9
松甚ビル2階江東労組連・ユニオン事務所内
TEL(03)3638-3366
 FAX(03)5626-2423

 http://www.zenzosenkikai.jp/Bunkai/Tobu/T-Chihon.html#ihi

 

 

 



 なぜ労働組合運動をやろうとする人たちが生まれてこないのか。

 

 大企業の職場における労働組合運動は不可能なのか?

 

 「もぐり込み戦略」を指揮した人物は、もういない。

 

 指揮された人たちは今、どのように思っているのか。

 

 

 

 

 

 

 

 大昔、労働法の先達から「個の確立」こそが、日本の労働者の運命を決めるときざみこまれた編集子は、その時反発したが、そうだったのかと、思わざるを得ない。


  ▽追記(2016.07.10):『あたりまえの労働組合へ』・全造船石川島――議論は続く。

 

 

 

http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-7f4c.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

より以前の記事一覧

無料ブログはココログ