ベトナム再訪問

2010年12月13日 (月)

ベトナムへの現代的支援・異見

 1960年代から1970年代に「ベトナム反戦」を主張した人は数多い。

 そのときの「ベトコン」という言葉は、覚えやすかったが、「南ベトナム解放民族戦線」か「南ベトナム民族解放戦線」という論争があった。

 大手一般紙なども後者の間違いを流していたことを覚えている。

 

 さて、その「反戦」を主張した人たちも、社会的には、ほぼ定年を迎えている。

 そこで、今のベトナムに必要な支援をいっしょに考え、協同の行動を行う人をもとめたい。

 ▽ライフラインとしての「上下水道」建設を支援できないか。

   日本の水供給システムは、世界一の「安全・安心・安定供給」力があるが、ODAとして支援できないか。

 

 日本では水事業の大半は、「公務員」が担っているが、日本で「赤字」をつくるより海外、特にベトナムに出て行って、支援できないか。

  旅人として、「水をそのまま飲めない」状況はなんとも、解決してほしい。

 

▽電力は、いまは水力発電と火力発電であるが、「停電」がある。

 世界中から「原発」を受け入れているベトナムで、他にないか、だれか考えてほしい。

▽日本の新幹線を、「ホーチミン・ハノイ」間につくることが議論されている。

鉄道を核とする交通システムの確立について、知恵の協力ができないか。

 

  ▽ベトナムは若い国で、戦後生まれ(1975年)が過半数を超えたという。しかし、ハノイの都市部では、高齢者が増えているのを垣間、見えている。

  これからの「ベトナム式高度成長社会」のもとで、都市への労働力の集積と比例して、かならず「核家族化」が進行していく。

またそのもとで儒教社会を超えるスピードで、「高齢化」すすみ、高齢者施策がもとめられてくるはずだ。

閑話休題

バイクが滝のように流れるベトナムの道路をどのように渡っているか、おもしろい動画がある。

私たちは、「ベトナムのおばさん」の横にくっついて渡るよう、ガイドさんから教えられたが。

■車にはねられないのが奇跡と思えるベトナム・ホーチミンの横断歩道(動画)

http://labaq.com/archives/51531057.html

 

  ▽追記:小松みゆきさん原作の本が映画になるというビッグニュース  

      (2014.09.24)

 

  http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-b7a5.html

  ▽知っておきたい「現代政治・戦後史のページ」(2014.10.21)

  ベトナム反戦のページ

 

 

 

2010年12月 5日 (日)

ホイアン―ベトナム再訪問5

  最後の訪れたのは(2010・11・10)、昔懐かしい日本の風景が残る、ホイアン。

旅の中で『覇王の夢』幻冬舎[文庫](津本 陽著)の本を読んだが、織田信長を描いたこの本の中で紹介されている堺商人は、当時、東南アジアの呂宋島に数千人進出していることを描いている。

 

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その中には、安南(ベトナム)にも、もちろん多数の堺商人がいたという。

  その商業港として「ホイアン」がある。

ホイアンは、朱印船貿易で交流し、この地に大規模な日本人街や中国人街が形成された。

江戸幕府の鎖国により日本人の往来が途絶えたが、街並みは残され、ベトナム戦争時代に破壊されることもなく、現在までその町並みを伝えている。

 

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 来遠橋(日本橋) 中国風の屋根付橋だが、1593年に日本人が建設したと伝えられる。

 

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 日本人街のなごこりか。

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2010年12月 2日 (木)

ヘエ―ベトナム再訪問4(2010・11・09)

今回は、ベトナム中部の「ベトナム最後の王朝、阮(グエン)朝の古都フエ」を訪問したかった。

 

フエは、1802年から1945年まで13代続いた阮(グエン)朝の都が置かれていた古都である。

世界遺産に登録された、古都フエの持つ荘厳な雰囲気には圧倒された。

王宮は、520haもの広大な敷地があり、江戸時代・明治維新の時代には、ほぼ完成されたという。

 

その後、フランスとのインドシナ戦争で一部破壊され、その後、アメリカとの解放戦争時に、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)が占拠して、アメリカにより徹底的に破壊された。

現在、少しずつ復旧されていた。日本のODAはここに注がれるべきだ(少額が入っているかもしれないが)。

またフエは大学もあり(ホー・チミンや軍事指導者のボー・グエンザップなどが卒業した高校<専門学校?>がある)、フエ病院なども有名である。

 

アジアの歴史を、高校・大学とほとんど勉強しなかったことは、アジア人の一人として、反省せざるを得ない。

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ベトナム国旗を翻したフエ旧王宮

 

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フエ旧王宮の堀の大きさが見られる。

 

2010年11月15日 (月)

ベトナム式結婚式―ベトナム再訪問3

 以下の日程で、ベトナムを訪問した。

 116日 成田発→ハノイ着

 117日 ハノイにて結婚式に参加

 118日 フエ訪問(下記注)

 119日 フエ探訪

 1110日 フォイアン探訪

 1111日 ハノイ発→成田着

 

 今回の目的は、知人の息子さんの結婚式で写真撮影を担当することになった。

 この日は、1日がかりで、朝から女性の家へ。仏壇の前で、誓いの言葉(両家の親)や親からのプレゼント。

 親戚や近所の人、彼の職場の人、とにかく食べて飲んで、お祝い。

 一緒に行った70代の男性は、「自分が10歳ごろの日本でも、同じように結婚していた」と話していた。

 

 別の会場で夕方から結婚披露宴。

 

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 現地の女性とその家族。

 

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 結婚式での食事(味はハノイ風。魚醤(ぎょしょう)を中心にした味付けで、やや癖がある)

 

 118日は、ホテルニッコーを朝5時発で、真っ暗の中をハノイ空港へ。

 出発が送れ、そのうえ、時間的にフエ近くになったら機内アナウンスは、ベトナム・フランス・英語のみで、英語の「Some Times」という言葉が気になった。

 次に「ダナン」という言葉。

 正確な意味をつかめないので、近くの座席にいた日本駐在員風の青年に、「この飛行機はダナンに向かっているのですか」と聞くと「そうです」と。

 10時過ぎに、ダナンについても、この青年にお世話になりじっと待つ。

 青年は「フエで会議があるので、お先に失礼します。お気をつけて行ってらっしゃい」と声をかけて、出発。

 

 われわれおじさん+おばさん10人組は、ホーチミンにあるツーリストに連絡して「迎えに来てほしい」と要請。

 

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 お昼は、空港内でインスタントの「フォー」のみで食事。

 

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 ダナン空港でじっと待つツーリスト

 

 2時過ぎにやっと「フエ便は中止」となり、ダナンの提携事務所から車が来てフエへ(3時間ほど)。

2010年10月23日 (土)

ハノイの友人―ベトナム再訪問2

ハノイには、古くからの知人が「BAちゃん」を迎えて、働き暮らし続けている。

ぜひ、以下のブログをのぞいてほしい。

ハノイ庶民、ベトナム人の働きぶり、暮らし方、その生き様がよく分かる。

その中で生きる在ベトナム日本人の、思わぬ苦労話も語られている。

http://chihanoi.cocolog-nifty.com/blog/

2010年10月22日 (金)

ハノイ―ベトナム再訪問

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昨年訪問したベトナム・ハノイを11月6日に再訪問する。

 

http://e-kyodo.sakura.ne.jp/candc/091116essay-13.htm

 

今回は、知人の息子さんの結婚式に参加する予定。

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