« 2022年9月 | トップページ | 2022年11月 »

2022年10月

2022年10月31日 (月)

「生誕120年 住井すゑ、95年の軌跡」を見てきた。

 先日(29日(土))、「生誕120年 住井すゑ、95年の軌跡―金輪際いつぽんきりの曼珠沙華―、日本近代文学館】」(駒場東大前下車)を松澤常夫さん(元「全日自労機関紙「じかたび」編集長。『私の童話』のインタビューをまとめた人、労働旬報社刊[1988年12月1日]のちに新潮文庫[1992年8月1日])と一緒に行った(その後、最近まで「日本労協新聞」編集長)。

 展示に関する「編集の意図」について、3人の編集委員の文章があるので参照。

 【編集委員 江種満子・金井景子・中谷いずみ(日本近代文学研究者)

 主 催 公益財団法人 日本近代文学館】

 https://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/13909/

 221029sumii1

 内容はあまり書かないほうがいいのかもしれないが、たたかう「女流作家」として、戦前期、戦後直後、『橋のない川』の執筆、生誕85周年の武道館講演会、抱樸舎づくり、牛久沼生活、映画「橋のない川」をめぐる激動、執筆活動の流れも、ナマ原稿の実物として展示されていた。

 第1部 奈良から東京へ――投稿少女から長編「相剋」の作者へ

 第2部 東京・思想のるつぼへ

 第3部 牛久沼のほとりで――書き、耕し、育む日々

 第4部 「橋のない川」に橋をかける

  Ⅰ 「橋のない川」とともにある犬田卯

  Ⅱ 創作メモと原稿(第5部以降)

  Ⅲ  「橋のない川」劇化と映画化

 第5部 対話の時空――拠点としての「抱樸舎」

 ※展示タイトルの俳句「金輪際いつぽんきりの曼珠沙華(まんじゅさげ)」は、牛久で住井の隣家に暮らし、親交のあった俳人の平本くらら(元「風土」主宰)が庭の曼珠沙華に住井の印象を重ねて詠んだものです(句集『円座』所収)。

 

 松澤さんに聞くと、当時、「じかたび」の1500号記念として、「80歳以上の社会発信をしている女性」として、本部から住井さんに直接にお願いして、お話を聞かせていただき、のちに単行本として『いのち永遠に新し』(櫛田ふき、住井すゑ、石井あや子、矢島せい子、労働旬報社、1985年8月)にまとめる編集段階でこちらが参加した。この本は、当時、寿岳章子さん(日本の国語学者他)が朝日新聞にエッセイを連載していて、すぐに取り上げていただいて、読者が広がった本。

  http://e-kyodo.net/#221031jikatabi-1

  220509inotitowani

 その本の新刊をもって牛久沼の「住井さん宅」を訪問して行ったのが初対面だった(ゲラを読んでいただいたはずだが)。

 牛久駅(常磐線)からタクシーに乗ったら、運転手さんもよく行っているところだと話してくれて着いたところは、農家の集落の中を通って、大きな庭にある2階建ての家だった。

 娘さんがいると聞いて行ったので、お迎えしていただいた方が、長女さん(次女は増田れい子さん・ジャーナリスト、毎日新聞「おんなの新聞」元編集長)のようだが、玄関の入り口に「販売用のたくさんの出版物」が置かれていて、どうぞ「2階へ」と案内された。

 通された和室は、12畳ぐらいあるような広さで、2人はだまって、待っていたら和服姿の住井さんが入っていらっしゃった。

 「この人が住井さんか」と思ったのが、最初の記憶。

 「何を話したのか」、まったく記憶に残っていなく帰ってきたのだが、最後に鰻をごちそうになったはずだ。

 それからまた半年後か(?)に松澤さんから「インタビューをしに行くので一緒に行かないか」と声がかかり牛久までいって、こちらも自由に聞いていいということなので、数問、聞いてみた(中身は『私の童話』の最後のインタビューのページに出ている)。

  インタビュー中に住井さんから「土と共に生きている人間に出会わなければ、いい編集者になれない」(正確ではないが)といわれたことが記憶に残っている。

 これが2回ほど続き、1987年の夏ごろ、少し話ができるようになったので大胆に(!)、『橋のない川』の描き方の一つの秘密は、「孝二とお祖母(おばあさん)の・ぬいの描き方にあるのではないか」と尋ねてみた。

 221031hasinonaikawa

 住井さんはすぐに「何か企画になるはずなので、考えて持ってきて」と言われ、暑い夏の間、『橋のない川』6冊(7巻は1993年)を読み返して(高校生時代から読んでいたので)、提案したのが『私の童話』の企画書だった。

 221031bunko7satu

 その後、ゲラを運ぶなどしてお話を伺いながら住井さんから「本の体裁や表紙、挿絵は田沼茂さんにして」、とすすめてくれた上、「わかって下さい」という文章もいただいた。なにしろ、「朝日新聞」の八割広告の本は、編集者としては、2冊目だった。

 すぐに出版記念会を牛久文化会館で開いたが、呼び込みの前説に永六輔さんが先頭でやり始めたときは、びっくりした。会場は満員になるほどだった。

 221031sumii7

 その後、「じぎょうだん新聞」に松澤さんが連載していた住井さんが戦後に書いた「子どもたち向けの小説」をまとめる作業をして、2冊の『私の少年少女物語』(上・下、労働旬報社、1989年7月、11月)にも、住井さんは「若き友に」という文章を寄せていただいた。

 221005sumii31

 さて展示会に話を戻すが、展示物の中に、私の先輩(旬報社・石井次雄社長・当時)が編集した「住井すゑ対話集」(3冊)があったので紹介しておきたい。

 221031taiwa1

 数多くの展示物の中にコメント文を書いているのは、編集をした3人の方だが、幾人か過去に出会った人が出ていた、そのお一人が農民運動家の「渋谷定輔さん」(『農民哀史 上―野の魂と行動の記録』、1970年)、『農民哀史から六十年』岩波新書、1986年)。

 渋谷さんに、市民生協の仕事で短文をいただきに行ったら、「生産者協同組合のことも、勉強して」といわれたこと。

 永六輔さんはもちろん、その後、沖縄高齢協の元理事長の平田亮一さんが書いた『ほのぼの医の風景 長寿国転ばぬ先のカルシュウム』(沖縄高齢協、シーアンドシー出版、2005年7月30日)では、序文をいただいた。

 最後に、映画「橋のない川」をめぐっての激動、朝日新聞社「RONZA」(註:現在の「論座」はこの雑誌のリニューアル版、95年8月号)も掲示され、「戦争責任」に関して論評されていることが出ていた。執筆者一覧なども表示。

 研究者としては、当然の営為だと思う。

 このことに関してWEBを探すと、このような論評もある。「農山漁村が衰え、差別的な言説が跋扈(ばっこ)する今こそ、住井の表現と向き合いたい。」⇔同感だ。

 武道館を埋めた作家がいた 戦争責任には沈黙 「差別」横行する時代に再評価を(共同通信社、2019/06/19)」

  https://nordot.app/513924894760109153?c=39546741839462401

 

 盛り上がりに水をさしたのは95年8月の『RONZA』戦後50年特集「表現者の戦争責任」。戦時中の住井が忠君愛国物語を書き、戦争を賛美したではないかと責めた。これに対して住井は「書いたというより、書かされちゃうんですよね、あの頃は」「それ書かなくては生活できない」と釈明した。さらに、責任のとり方を追及されると、「『橋のない川』を書くことがいっさいの自分の反省であり、もう、ここにすべてを書き込めると思って始めた」と応じている。

(中略)

 住井については、いまだにまともな評論が見当たらない。貧しく弱い者に寄り添い続けた文学は貴重だし、農村を舞台にしたおびただしい作品群は、その時代の農村事情を知るうえで、史料的価値も大きい。

 農山漁村が衰え、差別的な言説が跋扈(ばっこ)する今こそ、住井の表現と向き合いたい。(女性史研究者・江刺昭子)

 

 

 

 2022年9月17日(土)―11月26日(土・祝)

  https://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/13909/

 

 開館時間      午前9時30分~午後4時30分(入館は午後4時まで)

 観 覧 料      一般300円(団体20名様以上は一人200円)、中学生・高校生100円

 休 館 日      日曜日・月曜日(祝日は開館)・9/20・9/22・10/11・10/27・11/24

 編集委員      江種満子・金井景子・中谷いずみ(日本近代文学研究者)

 主  催      公益財団法人 日本近代文学館

 

 向い風の中の曼珠沙華たちへ――「住井すゑ」の世界

 

 住井すゑは晩年、石牟礼道子との対話(「蛽独楽の旅」、「週刊金曜日」1994年3月18日)において、自身の発想の原点とも言うべき興味深い逸話に触れている。

 3、4歳の頃、自分でうんこが出るのが嫌でたまらず、出すまいとしては失敗して着物を汚した。現場を見たことがないから大人たちもするということが理解できなかった。6歳の時に、天皇が大和へ大演習で来た際に、耳成山に建てた御陵の便所から人々が天皇のそれを拾って家宝にするという話を聴いて、「天皇も同じことをするという事実」を知った。食べたものは一定の時間が経つとうんこになる。時間の加減でそうなるなら、時間というものこそが人間にとって絶対的なものだと気付いたという。

 その絶対の法則があるのに、なぜ人は「時は金なり」という考え方に支配され、「時間は命である」ことを忘れるのかーー住井は深く問いかける。

 幼児期の問いは、90年の時間の中で、答えを探して弛みなく言葉を引き寄せ、文が書かれ、また新たな問いを産み出して来たのである。

 今年は住井すゑが生誕して120年、没後25年に当たる。

 今日、住井が「橋のない川」7部作の作家として記憶されているのは疑いない。しかし、奈良大和に生まれ育った住井が、この地を舞台とする大長編「橋のない川」を描くに至る軌跡は、時代と斬り結び、暮らしの中で自身を鍛え上げ、その中から言葉を紡ぐ時間の先にしかない。そのことを私たちに教えてくれたのは、2013年と2014年の2度にわたって日本近代文学館に犬田章氏(住井すゑの長男)より寄贈された住井すゑ・犬田卯関連資料である。これらの資料から私たちは、児童雑誌への投稿者として始まり、やがては農村に視座を据え、社会の底辺に生きるおんな・こどもの声を丁寧に拾い上げながら、近代を根底から問い直す 大きな問いを繰り出しつづけた住井の足取りを辿ることが出来る。

 これは、混迷を極めるwithコロナの時代に、人や地域、メディアに大きな影響を受け・与えつつ、文壇の誰にも類似しない、ただ一人の方法で時代に立ち向かった「金輪際いつぽんきりの曼珠沙華」・住井すゑの、人と言葉の豊かな世界を届ける展覧会である。

(編集委員 江種満子・金井景子・中谷いずみ)

2022年10月23日 (日)

「松澤常夫:ブックレットのページ」にワーカーズコープの皆さんの読書会をUPしました。

  ◆「岩波ブックレット」第2回読書会開かれる――「日本労協新聞」(2022年10月15日号、No.1296):「すごい「反対」受けたけど 『みんなで話し合う』という『格闘』」(「日本労協新聞」前編集長 松沢常夫、全文、PDFで読めます)
   http://e-kyodo.sakura.ne.jp/matuzawa/bookret.html

 220421book_20221023171401
 岩波ブックレット「〈必要〉から始める仕事おこし 『協同労働』の可能性」(労協連編)の登場人物たちと語り合う「読者会」2回目を、日本労協新聞主催で8月31日にオンラインで開きました。コーディネーターはブックレット筆者でもある松沢常夫労協新聞前編集長。
 発言者
 橘髙由美さん(千葉・浦安地域福祉、浦安・明海学童 寄り道カフェ)
 松崎愛さん(北海道・苫小牧ぽっけ地域福祉)
 村崎忍さん(ワーカーズコープ山口)
 岡元かつ子さん(センター事業団相談役、埼玉・深谷、 とうふ工房)
 金山ふみさん(福岡・大野城居場所 ほっとのたね)
 松沢常夫さん(労協新聞前編集長)
 ◆「岩波ブックレット」第2回読書会開かれる――「日本労協新聞」(2022年10月15日号、No.1296):「すごい「反対」受けたけど 『みんなで話し合う』という『格闘』」(「日本労協新聞」前編集長 松沢常夫、全文、PDFで読めます)
   http://e-kyodo.sakura.ne.jp/matuzawa/bookret.html


 岩波ブックレット「〈必要〉から始める仕事おこし 『協同労働』の可能性」(労協連編)の登場人物たちと語り合う「読者会」2回目を、日本労協新聞主催で8月31日にオンラインで開きました。コーディネーターはブックレット筆者でもある松沢常夫労協新聞前編集長。
 

 ◆「岩波ブックレット」第2回読書会開かれる(下)――「日本労協新聞」(2022年10月25日号、No.1297):反対されても「やる」という勇気、どこから――『みんなで話し合う』という『格闘』(PDFで読めます)
  http://e-kyodo.sakura.ne.jp/matuzawa/bookret.html#20221025dokusyokai-2%E3%80%80

 上の「松澤常夫のページ」(「祖国と学問のために」、「じかたび」、「日本労協新聞」の編集を長年実践)で、毎日のように読み込まれているのは、「じかたび・全日自労のページ」です、一度訪問してください。
  http://e-kyodo.sakura.ne.jp/matuzawa/jikatabi.html


 WEBで「全日自労」、「じかたび」の歴史的な事実は、このサイトでは読めます。
 ▽2017年4月30日 (日):君は知っていますか「全日自労」という労働組合
  http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-630a.html

2022年10月19日 (水)

ベトナムから帰国した小松みゆきさんと食事会

 昨日(9月18日(火))は、ベトナムから30年ぶりに日本戻ってきた小松みゆきさん(著書:『ベトナムの風に吹かれて』2015年9月、[角川文庫]、『動きだした時計: ベトナム残留日本兵とその家族』、白石 昌也, 古田 元夫他、めこん、2020年5月)と食事会を希望した村田憲生さん(1980年半ば以降のベストセラー雑誌:「月刊ファミコン」創始者の一人。現役の編集者)と一緒に、会ってきた。

   ▽2022925 ():月刊『ファミリーコンピュータMagazine』(略称は「ファミマガ」)を創刊した友人の紹介。

  http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2022/09/post-36d395.html

 

  こちらも合わせて、1970年代初頭の「旧労働旬報社を自主退職した社員」(「和議」で解決することが決まり、社規模の縮小のため。その後私は復職)だった。

 会食した場所は、新宿御苑前の中華レストラン「礼華」(らいか)さん。村田さんのゴチでいただいたが、中華「懐石料理」風(私の感想)で、品のある味付けなので女性たちは喜ぶ味付けだと思う。

 名物のフカひれは、味といい形もしっかりしていて、10数年ぶりに堪能した。

 221018kmatu

 221018kmatu41
 

 3人で食事をしたのは、映画「ベトナムの風に吹かれて」(松坂慶子主演、2015年10月17日公開)上映のために帰国した時以来だから、7年ぶり。

 まず小松さんが帰国した背景などを話してもらったが、もっぱら旧労働旬報社の面々の情報交換になったのは、「中小企業出版社」とはいえ1970年前後には「60人」を超す編集者・営業マン・発送・倉庫のメンバーが参加していたので大変。
 1960年代末の木檜哲夫代表が40代だという話には、3人ともびっくり(頭の形やステテコ姿で仕事をしていた)したりしていた。代表は大正15年(1926年生まれ)で総評弁護団(今の労働弁護団)づくりの「裏方」を担った編集者だった。

 221019vietnam

 221019vietnam2

 長い年月なので、お亡くなりになった先輩たちも多く、やむを得ない人生の流れには、「知らなかった」と悔やんでいた。
 

 話は飛び飛びながら、最後にこれからについて、小松さんが「ベトナム戦争終了時に日本に来たポートピープルの事実とその発掘をすすめていきたい」と語ったことが記憶に残り、散会した。

 221018kmatu3

 小松さんが表彰されている。
▽公益財団法人「社会貢献支援財団」(日本財団)
受賞者紹介:第51回 社会貢献者表彰、社会貢献の功績
 https://www.fesco.or.jp/winner/h30_51/winner.php?wid=12419

2022年10月 4日 (火)

吉原公一郎さんの「遺稿集と遺筆目録」をいただいた。

 先日(9月24日(土))、神田神保町で「故・吉原公一郎」さん(1928年6月22日 - 2021年8月6日、死去 作家)の娘さんに会った。

  220924yosihara3
  私が過日に書いた文章を読んで、メールが送られてきて、いくつかやり取りをしていた。
  ❖2016年2月27日 (土):吉原公一郎原作の映画「日本列島」を観てきた
  http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-40e1.html


   吉原さんは、自分が若い時期に読み込んでいた作家。
 『松川事件の真犯人 ジョージ・クレーと九人の男』三一新書 1962 のち祥伝社文庫
 『小説日本列島』三一新書 1963
 『赤坂桧町三番地』三一新書 1964
 その後、『謀殺 島田常務怪死事件』(ダイヤモンド社 1979年)を読んだり、先輩の本づくりで自宅に原稿をいただきに行ったこともあり、「作家という人はこんな暮らし方をしているのだ」と教わった。
 のちに、雑誌『まなぶ』(労働大学、1982年11月、491号)が「特集:"丸がかえ"御用組合化とたたかう」を発刊のときには、データや資料を提供した。
 《資本の組合"丸がかえ"作戦――インフォーマル・グループを中心に /共同討議
  富士政治大学校にみる洗脳教育 / 曽戸正明
  謀略の機関誌『サスコミ』とは何か / 吉原公一郎
  核づくり、組織づくりで対抗 / 浜崎忠晃》
  http://e-union.sakura.ne.jp/union/informal.html#20141022manabu


 つづけて、日本航空の労働問題のシンポジウムのまとめなどで、出会っていた。

 娘さんは(還暦を超えていると自ら話していた。現職はイベントやカタログ・デザイナー)、「父の仕事を残すために、テーマごとに段ボールに整理して、単行本以外の主な執筆原稿と遺筆目録」を1冊にまとめていて、この数か月で自主出版した、出来立ての本をいただいた(なんと四六判、600ページを超える)。
 「あまりにページが増えて、本文ポイントの級数を下げたり、紙質を軽いものを探して造本(フランス装)した」と話していた。

  220924yoshihara11

 

 彼女からいただいメールでは、「防衛・内調関係は父の晩年に親交のあった研究者たちがおりますので、そちらと相談していますが、下記に関しては、アクセスすべきところがどこか考えあぐねているところです。
 ・JR労働組合関連(浦和電車区事件などの調書、裁判記録等も含め)
 ・日航労組と御巣鷹山墜落事故、羽田沖墜落事故等一連の航空会社&航空機問題
 ・戦後GHQ時代の事件関連(松川・三鷹等一連の事件など)
 ・ロッキード・グラマン関連と一連の謀略関連
 特に日航労組に関しては故藤田日出男氏はじめ組合の方々とも深い親交があり、カンパを募っての機関誌発行もしておりましたが、藤田氏が急逝し、組合も解体されたと聞き及んでおりますので、コンタクト先が皆目見当がつかない状態です」とアドバイスを求められていた。
 私には応える情報が少ないので「学生時代の先輩で日本航空第一組合で闘った人(波多野章さん )がいるので、聞いてみる」という返事をして。その結果、24日(土)に神保町の「カフェ古瀬戸」にて3人で面談した。

  220924yosihara1

 話の中身は結論だけ、「11月中に吉原家に訪問して、段ボール5~6個を開けてみよう」ということになった。
別れ際、「自分の親が作家とはいえ、遺稿集と遺筆目録づくりをするなんて、今どきエライ人がいる」と思って来ました、と話して別れてきた。
 【注】研究者の方で、「日本航空の現場、企業分析」などに関心がある方がいらっしゃたら下記へ、ご連絡ください。
sin_ryo11731アット(@に変えて)yahoo.co.jp

« 2022年9月 | トップページ | 2022年11月 »

無料ブログはココログ