最近、地元(越谷市)の市民サークルで「◆編集者の仕事とは:児童書の編集はできません――ある市民生協のママさん理事の声」と題して話した。少人数の参加者だったが、まとめる準備が面白かった。
(パワーポイント版)
https://view.officeapps.live.com/op/view.aspx?src=http%3A%2F%2Fe-kyodo.sakura.ne.jp%2F220917aditor-toha1.pptx&wdOrigin=BROWSELINK
テキスト版のページへ
http://e-kyodo.sakura.ne.jp/arisu/220917aditor.html
・2022年9月17日(土)午前10時~12時、ミニ講演会で話します。
・場所:越谷市市民活動支援センター5階会議室
・主催:ロービジョン友の会
❖主な柱建て
序 出版業界の編成
Ⅰ 出版業界の現状は
Ⅱ 編集者の仕事とは
1 「無から有へ」「出版業は、生産労働である」、と教えられた。
2 企画力、マーケットの判断力→無政府的販売の仕事。
3 活字文化における「インテル」――活字の組版に使う込め物。行間(interline-leads)に挟む鉛の板という意味である。
売れる本づくりのむずかしさ
Ⅲ 編集者の仕事で出会った話
[1]インタビュー記事づくり
[2]日本中の産地訪問の記事づくり
[3]ヨーロッパの「協同組合訪問」記事づくり
Ⅳ 素晴らしき編集者の実像
この作業を進めるために編集子の仕事を振り返って整理した一覧を「シーアンドシー出版のページ」に作ってみた。
http://e-kyodo.net/
やっぱり1980年代の激しい時代の変化が、本づくりに及ぼしていることがわかる。
当時、労働組合運動のあり方や社会政策、労働問題、社会保障などの分野の本づくりを目指し(20人以上研究者の本づくりと社会政策学会の年報が作れる出版社へ)ていたが、社長のYさんからストップがかかっていた。
それはこちらが企業内組合の役員であった折、「会社内で利益を出していないなら春闘要求を出すべきではない」という言い方と、飲み会(それは自分が彼の一番そばにいた時期が多かった)などで「俺の知らない研究者(社会政策学会の動向について無関心)の本をなぜだすのか」「大月や青木、ミネルヴァや法律文化社(名前を出して申し訳ない)などの出版社にはしない」、といつも言っていた。
その上に、こちらが「教育資料出版会や晩聲社などの本づくりは意味があるのではないか」と聞いても、いい返事がなかった。これは今崎暁巳さん以外は認めないという、ルポ論(告発だけでは意味がない論)が根底にあって、強固だった。
彼は「切り口を変えろ」「テーマを生活レべルに」など貴重なアドバイスもあったが、合意できたのは市民生協に関する企画や「女性向けの本づくり」だった。
◆「女性の読者」を意識した本づくり――1980年代の出版状況の大変化に抗して
http://e-kyodo.net/#20220525jyosei
1990年初頭、「PROSUME」や「健康せいきょう」、「大相撲ファンクラブ」「パフォーマー」「仕事の発見」誌づくりの仕事をマンションに仕事場を作り、編集・制作していた時、「自分が定年になるので復帰せよ」と言われたが、条件が「今ある仕事を全部やめる」「中西五洲、永戸祐三関係(労働者協同組合など)は持ち込まないこと」と言われたので、決裂してしまった。
後半の条件をなぜ出したのか、聞けなかった。
その押しつけを理解するために、富澤賢治さん(一橋大学名誉教授・聖学院大学名誉教授)が書かれた文章を紹介したい。旧「左翼陣営」の反発が強かったわけだ。
2014年5月16日 (金):非営利・協同の10年――「関東の3悪人」
富澤賢治さん(一橋大学名誉教授・聖学院大学名誉教授)が、研究者としてはめずらしい自己への批判に応える文章を発表した。テーマは表題のように「非営利・協同の10年」(いのちとくらし46号)を振りかえって、以下のような柱立てで、論理を展開している。
「非営利・協同の10年」、富沢賢治、『いのちとくらし研究所報』46号、2014年3月
http://e-kyodo.sakura.ne.jp/tomizawa/tomizawa-ronkou1.htm
上記論文で「実践面で最初に批判の対象とされたのは、全日本自由労働組合(全日自労)の委員長であった中西五洲氏である」と書いている。
また“労働者協同組合運動を理論面で支援する研究者たちも厳しく批判された(黒川俊雄氏、角瀬保雄氏、富沢賢治は「関東の3悪人」と称された)。”
“批判の対象とされた「関東の3悪人」の主要著作としては、黒川俊雄『いまなぜ労働者協同組合なのか』(大月書店、1993年)、富沢賢治『非営利・協同入門』(同時代牡、1999年)、角瀬保雄『非営利・協同と民主的経営論』(同時代牡、2000年)がある。”
なぜ「左翼」から批判されたのか、その状況を書いている。
判断は、読み手に任せたい。
【追記:2022.10.06】
1990年代の社会的背景の一端を書いたが、再会したのは、2001年新年号の「けんこうと平和」(医療生協さいたま広報紙)に、「ゾウ列車のコンサート」について書いてもらったことがある。
その間、「柳(やな)さん」は、労働旬報社定年後、疎遠になって、自らの出版物を「ふきのとう書房」(目黒さん)から出版していた。
ということは、「あの時、戻らないほうがいい」と話していた事実(当時の経営陣の分裂)は、彼の方にあったんだと思う。
やなさんとの関係では、以下の文章がある。
2019年2月23日 (土):柳澤明朗さんの追悼を含む「たたかいのルポルタージュ」第16号を編集中。
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/16-b577.html
2019年4月 5日 (金):「たたかいのルポルタージュ 第16号」(追悼 柳澤明朗)を発行。
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-d823.html