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2021年7月

2021年7月11日 (日)

10数年ぶりに連絡があった「是永幹夫」さん(わらび座から大分市の複合文化交流拠点施設「ホルトホール大分」へ)。

  現在、県都・大分市の複合文化交流拠点施設「ホルトホール大分」の館長・統括責任者になって頑張っている是永さん。
   http://www.horutohall-oita.jp/

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 秋田の「わらび座」で経営責任者のお一人として、「たざわこ芸術村」を育て上げ、秋田37年で満期卒業をして、上記の「ホルトホール大分」などでまちづくりに励んでいる、という。
 彼は、文工隊時代のわらび座の人だったが、1980年代半ばごろ東京に上京して「文化協同研究会」を3年にわたって組織して、芸術団体、市民生協の文化活動、子ども劇場(おやこ劇場)、児演協、音楽家ユニオンなどの垣根を越えて、協同して研究会が開かれた時の事務局長で(レター発行は、機関紙連合通信社。その研究会に、私も参加していた)、力を注いだのは文化人・知識人を広範にわたって参加・交流する場づくり(秋田へ)の役割を担っていた。
 →添付した「私の文化経済学履歴書」参照。

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 その後(2001年)、秋田に戻った時代に私の学生時代の知人がテレビ秋田の役員になっていたので、司馬遼太郎の「菜の花の沖」の創作劇(原作/司馬遼太郎(文芸春秋刊より)、脚本・演出/ジェームス三木、美術/妹尾河童)を一緒につくって宣伝・広報をしていたのを聞いていた。
 https://www.warabi.jp/nanohana/

 是永さんからは、《「インターネット事業団」の発信の量と質にいつも感嘆しています。いまの時代にとても重要な中身ですね。「温故知新」から「温故創新」のための大事な橋頭堡だ》と、彼には珍しい過分な「誉め言葉」をいただいた。
 http://e-kyodo.sakura.ne.jp/

2021年7月 9日 (金)

『水俣に生きた労働者 チッソと新日窒労組の59年』を寄贈されたので。

 旧知の知人・石井まこと(大分大学教授)さんから『水俣に生きた労働者 チッソと新日窒労組の59年』(2021年4月10日、 富田義典、花田昌宣編、チッソ労働運動史研究会編著、明石書店)を寄贈していただいた。
 WEBで調べてみると、「水俣学研究センター」で研究が蓄積されていることがわかったので、facebookで、「どなたか書評を読んだ方がいれば、ご紹介ください」と呼びかけた。
 書評はまだないようだが、多くの方が「いいね」と送ってくれた。

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 続けて、以下のようなメッセージを発信した。

【勉強中】このチッソ労働運動史研究会は、調べてみると「大原社会問題研究所」も含めて研究が進んでいることが分かったし、労働旬報社も『安定賃金 日経連新政策とのたたかい』(日本労働組合総評議会、1963年7月、労働旬報社)を出版していて(この時代の編集者は木檜哲夫代表か)、同書を読んだ記憶があるのですが、1960~70年代にける地域社会との連携、春闘・公害闘争、合化労連内の位置、企業別組合(少数派になっても)としての奮闘などなど、正確に学んだことがなかったので、以下の論文を読んでみた。

【参照 1】映像で見る新日本窒素労働組合の歴史.
水俣学データベース
 https://www3.kumagaku.ac.jp/minamata/database/

  

【参照 2】善寛さんに恥宣言のことを聴く、公開済み: 2017年6月30日作成者
 https://gaiaminamata.net/taimen-series-1

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対面シリーズ……この特集は、僕たちの人生を僕たちの足で踏みしめて歩んでいくための基礎体力を得るべく、方々への対面を勝手に企画しているものです。

 今回の語り手:山下善寛(やました・よしひろ)さん
……1940年9月18日生まれ。1956年から2000年までチッソに社員として在籍し、現在は企業組合エコネットみなまたの代表理事を務める。IWD東亜による水俣への産業廃棄物処理場建設予定が立ち上がった際に結成された市民団体「水俣の暮らしを守る・みんなの会」の代表としても活躍している。山下さんとは田んぼでの作業を介して知り合い、田や取水パイプの管理を通して、今も色々なことを教えていただいている。
※企業組合エコネットみなまた  http://www.econet-minamata.com/

聞き手:高倉鼓子、高倉草児……ガイアみなまた職員


【参照 3】水俣病問題に向き合う労働組合の成立と労使関係史上の意義――漁民紛争・安賃闘争から恥宣言に至る「空白の8年」をふまえて、【特集】新日本窒素の労使関係・労働運動の諸相(2)
石井 まこと、大原社会問題研究所雑誌 №676/2015.2
 https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/676-02.pdf


【参照 4】「戦後日本の社会運動におけるチッソ労働運動の位置づけ――もう一つの「水俣」」(大石 裕、【特集】水俣病事件と新日本窒素労働組合)、大原社会問題研究所雑誌 №630/2011.4
 https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/630-02.pdf


 チッソの労働組合の変遷を略述したのが以下の年表である(熊本学園大学水俣学研究センター,2009;「関連年表」,および橋本編,2000:220-221を参照)。

1908年 日本窒素肥料株式会社,水俣で操業開始。
1946年 (1月26日)日本窒素肥料株式会社水俣工場労働組合(日窒水俣労組)結成(3,214名)。同時期に結成された東京,大阪の組合とともに日本窒素肥料株式会社労働組合連合会(日本窒素労連)を結成。
1950年 (1月)日本窒素肥料株式会社,企業再建整備法により解散。新日本窒素肥料株式会社
(新日窒)を設立。
(10月25日)GHQ指令に基づき人員整理(レッドパージ)を通告。
(12月7日)レッドパージ反対闘争の方針不一致により,新日窒労組連解散。新日窒水俣労組も分裂し,レッドパージ反対闘争の批判派が革新労働組合を結成。
1951年 (2月27日)革新労組(2,600名)が少数派になった新日窒水俣労組(500名)を吸収合併(名称は,新日本窒素水俣工場労働組合に)。
(5月1日)県総評結成後のメーデーに初参加。
(7月)水俣・東京・大阪3組合で新日本窒素労働組合協議会(日窒労組協)を結成。新日窒水俣労組,合化労連に加盟(4,400名)。
1953年(10月1日)新日窒水俣労組,身分撤廃闘争スト(従業員呼称(社員・工員)の一元化,日給制を月給制に,定年55歳一本化など)。組合の要求の大半受入れ。
1959年 (8月19日)新日窒労組,水俣病をめぐる漁民の闘いの支持を代議員会で決定。
(9月18日)「安保条約改定を阻止するための実力をもって闘う」スト権確立。
(11月4日)11月2日に生じた漁民暴動事件を受けて,新日窒労組は,緊急代議員会を開き,原因の早期究明,患者対策,漁業対策を推進しなければならないが,このような不祥事を惹起したことは遺憾に堪えないと表明。
(11月6日)新日窒労組,工場の操業停止絶対反対を決議し,チッソ社長,県漁連会長に提出。
1960年 (1月14日)安保条約改定阻止統一行動,「提灯」デモ行進。1962年 (3月28日)新日窒労組の賃上要求に会社側ゼロ回答。全製造部門24時間スト決行。
(4月27日)チッソ「安定賃金制度」を提案。労組は硬化し,闘争体制へ。
(5月3日)新日窒労組中労委に斡旋を申請するためスト中止(斡旋は6月6日に中止)。
(5月9日)合化労連中央闘争委員会,「安定賃金は合化労連への挑戦」とし,新日窒労組への全面支援決定。
(5月12日)熊本県評,総評が労組支持を決定。「新日窒支援共闘会議(総評,県評,合化労連など)」結成。
(5月21日)争議早期解決を願い「農民会」立ち上げ。
(6月)東京組合(8日),大阪組合(12日)は安定賃金をベースとする条件闘争に方針転換。
(7月23日)チッソ全面ロックアウトに突入。「新日窒水俣工場労働組合(新労組:第2組合)」結成。
(8月18日)チッソ,新労組支持の商店主,「水俣市繁栄促進同盟」を結成。
(9月21日)チッソと新労組,東京労組,大阪労組,安定賃金にそった賃金協定に調印。
1963年 (1月5日)地労委,安定賃金を基礎とし,争議指導者2名の退職を含む斡旋案を提示。斡旋案を合化労連,新日窒労組,チッソが順次受け入れ,スト解除。
(5月13日)第1次~第3次,希望退職者を募集,新日窒労組と対立。1968年(8月30日)新日窒労組定期大会で「恥宣言」を大会決議として採択。

(12月15日)「水俣をよくする会」発足,①水俣病患者及び家族を支援,②公害をなくする運動と被害者対策を進める,③市の発展ため水俣工場の人員削減に反対。
1969年 (8月8日)チッソ,水俣工場縮小計画で688名削減を発表。
(11月16日)新日窒労組員に自宅待機命令,24時間ストで抗議。
1970年 (5月27日)新日窒労組,8時間の「公害スト」決行。
(7月23日)チッソ,水俣工場存続のため従業員1,580名を930名に削減を発表。多くの従業員に転勤命令。
(12月)新日窒労組,水俣工場縮小・首切り反対のスト権確立。
1972年 (3月16日)1次訴訟で,チッソ労組員5名が原告保証人として証言。(4月13日)新日窒労組,チッソに要求書(①チッソの非人間的な体質を改める,②首切りをしない,③水俣病の責任をとり,患者家族に十分な補償をする)を提出。

 


『安定賃金』 労働旬報社
『安定賃金 日経連新政策とのたたかい』、日本労働組合総評議会、1963年7月、労働旬報社;

日本大百科全書(ニッポニカ)「安定賃金」の解説
安定賃金(あんていちんぎん)

向こう数年間の賃上げ内容をまえもって決定することを条件に、その期間労働組合は賃上げ要求や争議をしないという労使間の長期賃金協定のこと。企業が長期経営計画のなかで賃金の総合管理(狭義の賃金のみならず、一時金、退職金、福利厚生費などを含む労務費の安定化)を計画的に行おうとするものである。賃上げ決定の基準として一般に用いられているのは、同業他社の賃上げ内容にリンクする方式(ぶら下がり方式)であり、このほかに当該企業の付加価値生産性上昇率や国民経済成長率を基準とする方式もある。安定賃金制度は、1950年代末から1960年代にかけて春闘の高揚に対抗して経営者側によって提起された。これに対して労働組合は労働者の賃上げ要求の権利を実質的に制限し、労働組合の弱体化につながると批判した。
[伍賀一道]

『日本経営者団体連盟編『安定賃金――賃金観念の新しい転換』(1959・日本経営者団体連盟弘報部)』▽『日本労働組合総評議会編『安定賃金――日経連新政策とのたたかい』(1963・労働旬報社)』

[参照項目] | 賃金
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア「安定賃金」の解説
安定賃金【あんていちんぎん】
比較的長期の賃金協定を締結し,その間の賃上げは,労資の団体交渉によらず,同業他社の賃上げ額,その企業の付加価値生産性,あるいは所定の額などを基準として行うもの。日本では1959年労組が主張する春闘賃上げ方式に対抗して日経連が打ち出し,その後,経営者の賃金政策の基本路線の一つとなっている。
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