公文昭夫さん(元総評社会保障局長)のご逝去を知って。
▽追記:230908:公文昭夫さんを偲ぶ会。
▽追記:230722:公文昭夫(1955年総評入局)がインタビューに答えています。
http://www.jca.apc.org/labornow/labornowtv/sohyo.html
◆31分ごろから:語り継ぐ総評40年 1950〜1989
Video 語り継ぐ総評40年 1950〜1989
9. 生活闘争から国民春闘へ 31:24〜
BiographyBiography
労働組合のナショナルセンター
日本労働組合総評議会 (略称:総評)
1950年 7月11日 結成
1989年11月21日 解散
ビデオ『語り継ぐ総評40年 1950〜1989』(企画・制作:公益財団法人総評会館、総評退職者の会)は、2012年3月から2013年4月にかけて、8人の組合リーダーにインタビューし、53分にまとめたものです。
映像提供:国鉄労働組合、日鋼室蘭労働組合、三池炭鉱労働組合、日本放送労働組合
写真提供:日本労働組合総評議会
協力:法政大学大原社会問題研究所
▽以下が本文。
1970年代初頭から1980年代の「賃金と社会保障」の編集の時には、毎月のように原稿を書いてもらいました。その後はペンネームになったときもありました。
高知生まれの「キップのいい人」で、葛飾の青砥・柴又界隈でお世話になりました。
『学童保育物語―僕はかぎっ子じゃない』(労働旬報社、1966年)を書いていて、市民運動を理解していた「総評社会保障闘争・労働運動のコーディネーター」でした。また労福協を率先してすすめて、日本生協連・労働金庫・全労済などを進展した人です。
総評の解散後は、「年金実務家」として奮闘しました。
▽1931年、台湾生まれ。戦後、高知へ引き揚げ。製パン工、製材工、船員などを経て、高知県教組勤務。1955年、総評本部。解散時(1989年)社会保障局長。1990年、年金実務センター創設。現在、同センター代表。元・中央社会保障推進協議会副会長。
「五十嵐仁のページ」の紹介のように、「総評時代」の体験を発信しています。
◆『日本社会党・総評の軌跡と内実 (20人のオーラル・ヒストリー)』、五十嵐 仁 、木下 真志、法政大学大原社会問題研究所 編(旬報社、2019年4月刊)
http://e-kyodo.sakura.ne.jp/igarashi/igarashi-index.html#201220syakaitou
▽以下参照してください。
「私が歩んできた社会保障運動――総評・中央社保協体感の記録 公文昭夫氏に聞く」■(証言:戦後社会党・総評史、法政大学大原社会問題研究所、『大原社会問題研究所雑誌』、 №701/2017.3)
https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/701_04.pdf
【追記】22.01.19
1960年代から1980年代の総評運動の中で、日本生協連や日本生協連医療部会、労済連などの関係をつくっていたのは、公文さんですね。
1960年代末に『体系労働者福祉論』(中林貞男編、1968年、労働旬報社刊)をまとめるきっかけも公文さんでした(私はアルバイト中だった)。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/c811477560
私が担当した『社会保障ハンドブック』や「社会保険料3:7闘争」「年金闘争」の編集なども公文さんからアイデアを出していただきました。
総評や春闘共闘ががんばった1970年代初頭の生活闘争から国民春闘への発展などの指針も、旺盛に書いていた。その論文の一覧(部分)。
https://ci.nii.ac.jp/search?q=%E5%85%AC%E6%96%87%E6%98%AD%E5%A4%AB&range=0&sortorder=1&count=20&start=201
【追記:220119】facebookで以下のように発信されています。
名嘉圭太 22.01.18
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=3156683254655294&id=100009409516567
【「社会保障」2022年新春号 公文昭夫さんを偲ぶ】
昨年6月に亡くなられた、公文昭夫さんへの追悼の言葉
執筆者は
・住江憲勇(全国保険医団体連合会会長・中央社保協代表委員)
・堀幾夫(中央社保協・元事務局長)
・井上英夫(金沢大学名誉教授。大学院時代に総評での研究会に参加)
・原富 悟(埼玉社保協副会長・埼労連議長)
・菅野勝祐(繊維労連 葛飾の中小繊維工場の労組専従)
・木村陽治(元都議会議員 保育運動で公文さんと一緒に)
読んでいて、90年代に社保協運動を再建したことはもとより、1973年の年金闘争、団地の一戸で無認可共同保育を始めて、公立保育所、学童保育づくりなど地域運動に関わった、在りし日の公文さんの姿が垣間見える。
しかし、一番、公文さんが情熱を燃やした総評事務局時代、特に黎明期の社会保障運動の時代を語る人がいなくて残念。その頃については、公文さん自身が語っているのもあるにはあるが(『日本社会党・総評の軌跡と内実 : 20人のオーラル・ヒストリー』)。
その頃の公文さんを身近で見た人はいないのか、と何か寂しくなった・・・
参考までに、公文昭夫氏の略歴
1931年 台湾嘉義市生まれ
1952 年 高知県教職員組合教宣部書記
1955 年 総評本部福祉対策部書記。その後、社会保障対策部長、局長
以後,総評解散(1989 年)まで、ほぼ一貫して社会保障対策を担当
その後,中央社会保障推進協議会副会長,年金実務センター代表。
【追記:2023年3月16日】
「私が歩んできた社会保障運動― 総評・中央社保協体感の記録」(公文昭夫氏に聞く、■証言:戦後社会党・総評史、『大原社会問題研究所雑誌』、№701、2017年3月)
https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/701_04.pdf
ここに塩谷信雄さん、天達忠雄先生(「明治学院大学教授」という肩書が入っていないのは変ですが)のことが紹介されていますね。私は、公文さんに大変お世話になった一人ですが。
>1953年に世界労連が、世界労働組合社会保障会議という国際会議を開くわけです。ウィーンでやったのですが、そこで社会保障綱領が採択される。そして労働組合の立場から見た社会保障の原則を7 つ立てて,その7つの原則が大きな社会保障闘争の指標になった。(略)
>その社会保障綱領は、日本の場合は朝日訴訟で活躍された天達忠雄さんといった学者の皆さん方が本でまとめて労働組合や一般の大衆団体で読まれたわけですが、(略)
「天達忠雄 労働旬報社 賃金と社会保障」について。
以下を読むと、私の編集長時代の前に大変な付き合いがあったようですが、1960年代末の「倒産状態」でその歴史が断絶しています。
「朝日訴訟を支えた人々」(渡邊かおり、愛知県立大学教育福祉学部論集 第67号(2018))
https://core.ac.uk/download/pdf/228949381.pdf
天達は、社会保障制度の問題点を『福祉対策資料』17)等で発表しながら、労働組合における調査活動を行ったり、明治学院で社会保障を教えたりしていた。天達は自らのことをほとんど語っていないため、朝日訴訟の支援にかかわるようになった具体的な経緯は明らかではない。しかし天達は、渡辺洋三、新井章、長宏と行った朝日訴訟を振り返る共同討議において、「正直にいって、それまで訴訟になるとは、ぼくらも考えていなかった。
17)『福祉対策資料』は1959年に『旬刊賃金と社会保障』へ、そして1972年に『賃金と社会保障』へと改題され、現在も発行されている。
18)天達忠雄・渡辺洋三・新井章・長宏(1967)「最高裁判決と朝日訴訟闘争」朝日訴訟中央対策委員会編『人間裁判10年』労働旬報社、1967年。
この著者:渡邊かおりさんは「文化活動から労働運動へ──天達忠雄の青年期の活動に焦点をあてて──」(愛知県立大学教育福祉学部論集 第66号(2017)を書いています。
https://core.ac.uk/download/pdf/228949381.pdf