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2019年12月 7日 (土)

「新井英一 清河への道」を20数年ぶりに聞く

   この夏に1台、仕事用のHDDが突然、朝起きたら起動せず、いろいろ試したが駄目だったことがあった。予備用にもう1台、バックアップしていたものがあったので、いまはそれを使っている。HDDは5年ぐらいで寿命(もっと使っている人も多い)が来るといわれているが、そのHDDは8年前から使っていた。

 それより前の前の1990年代に使っていた古いHDDを点検していたら、新井英一さん「清河への道」が出てきたので、全部聞いてみた(50分ほど)。

 「清河への道」は、1995年に《TBS-TV「筑紫哲也ニュース23」のエンディングテーマ曲に選ばれ、テレビ、雑誌、新聞等で取り上げられ話題となる。そのアルバムは第37回日本レコード大賞「アルバム大賞」を受賞。》と書かれていて、こちらもその影響で聞いたのだと思う。

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 書店に行くと「嫌韓ブーム」に乗った「嫌韓本」が多く並んでいるが、1990年代は少なかった。

 新井さんの「生きざま」と家族との葛藤、岩国へ、アメリカへ、韓国へと綴った詩は、重厚に生きた人の感性を謡いあげている。

 興味がある方のために、Profileは、別のページに会ったのでそれを引用しておく。

 「新井英一

 あらいえいいち。19503月福岡生まれ。15歳で家を出て岩国の米軍キャンプなどで働き、ブルースに魅せられる。21歳で渡米し、放浪生活の中で歌手を志し独学で歌作りを始める。日本で生まれ育ち、朝鮮半島の血を引く自らを「コリアンジャパニーズ」と呼ぶ。

 帰国後、内田裕也氏に見い出され、アルバム『馬耳東風』(1979年)でデビュー。 1986年、様々な葛藤と不安を抱き、亡くなった父親の故郷である韓国・清河(チョンハー)を初めて訪れる。数年後、その旅の思い出と共に自らのルーツと半生をストレートに歌い上げた『清河への道~48番』を作り、1995年に一枚のアルバムとして発表。TBS-TV「筑紫哲也ニュース23」のエンディングテーマ曲に選ばれ、テレビ、雑誌、新聞等で取り上げられ話題となる。そのアルバムは第37回日本レコード大賞「アルバム大賞」を受賞。韓国KBS-TVでドキュメント特別番組が放映され、日本でもNHK「わが心の旅」、テレビ朝日「報道特別番組21世紀への伝言」等多数の番組に出演。またライブにおいては国内はもとより、N.Y.カーネギーホールなどでのアメリカ公演に加え2000年はパリでもライブを開催、そして2002年には韓国ツアーが実現。念願であった「清河村」でのライブを成功させている。2004年アルバム『生きる』をリリース。2009年「ライブイズベスト』3枚組リリース。2012年オリジナルアルバム「唄魂」をリリース。

 今もなお、、、、、、、、。

http://www.e-arai.com/prof.html

 

 YouTubeには、10分弱の歌曲が聞ける。

https://www.youtube.com/watch?v=a5MufByel7s

 

 『新井英一ドキュメンタリー 韓国初ライブ全記録』(2004/カラー/90分)があるという。

 「語り 黒田福美/監督 澄田憲親/製作 ワイズプロジェクト プロデューサー 吉田豪(フジテレビ) ・寺戸美香子・岩男浩司/企画制作 堀内雄一郎」

 アボジー 新井のしぼり出すような歌声が 清河の夜空にこだました・・・

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 <STORY>

 全身から絞り出す、太くしわがれた歌声、スポットライトに照らされ汗まみれになってかき鳴らすギター、野獣の遠吠えを思わせる、その歌声にふるえる空気―――決して美しい歌声ではない、無骨な彼のブルースは、どこか優しく暖かく聞く者の魂をわしづかみにする。

 

 新井英一 1950生まれ

 在日韓国人一世の父と、日朝ハーフの母をもつ

 自称「コリアン・ジャパニーズ」のブルースシンガー

 

 九州・福岡の下町、吉塚で洗いは三人兄弟の末っ子として育った。

 父は、彼が生まれてすぐ結核に冒されて入院、離ればなれに暮らしていた。

 そのため、新井は父の記憶がうすい。

 廃品回収業を営む母親の手ひとつで育てられた英一少年。

 差別、貧困、いじめ―

 15歳で家出した新井は、荒んだ放浪生活の中で父の訃報を耳にする。

 しかし、「不思議と涙は出なかった」・・・・

 

 29歳で念願の歌手デビュー。

 その後、結婚して自らも父親となった新井は、おりにふれ、早くして亡くなった父親の無念さを深く感じるようになったという。

 「病院に入っていたけど、家族の事は気になるし、女房の事は気になるし、自分の体は思うようにいかないし・・・そう思うと、何かもう、親父もかわいそうやなぁって・・・」

 

 36歳のある日、新井はさまざまな葛藤と不安を胸に、父の故郷、清河行きを決断する。

 

 新井はこの清河訪問をきっかけに、亡き父の故郷と自らの半生を綴った歌で48番までつづく「清河への道」を制作。

 この歌を父の故郷、清河で歌うこと。

 それが新井の悲願となった。

 日本の歌が禁止されていた韓国での度重なるチャレンジ。そして挫折。

 

 2002年5月、52歳になった新井の夢がようやく実現した。

 ツアーの最終日。

 夕日がゆっくりと清河の山に沈み、新井のライブが始まった。

 舞台は清河にある中学校のグランド。

 ステージと客席を隔てるものはない。

 今、その声は海を渡り、近くて遠い亡き父の祖国、そして自らのルーツである念願の地、「清河」の山河に響き渡る。

 ルーツ探しの旅から16年のことだった。

 

 これは新井英一の悲願、初の韓国ライブの全記録である。

 

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