高卒青年労働者が担った「高度成長期」の「職場の主人公づくり」――日立労働者群
3冊目は、『明日へのうた――語りつぐ日立争議』(戸塚章介、大月書店、2001年12月)
著者の戸塚さん(1937年生まれ、元毎日新聞労組・新聞労連出身、元東京都労働委員会労働者委員)は、現在でもブログ「明日へのうた――労働運動は社会の米・野菜・肉だ。」で健筆を振るっている。
http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765
本書の日立争議の主人公たちは「残業拒否解雇事件の田中秀幸。中研賃金昇格差別事件の一二人。男女差別事件の五人。東京賃金昇格差別事件の四人。愛知賃金昇格差別事件の三人。茨城賃金昇格差別事件の一七人。提訴外で共同要求団に加わった三二人。茨城関連会社賃金昇格差別事件の四人。関連会社の提訴外者五人。合計八一人(男女差別事件の五人中二人は中研事件と重複)」だ。
前出の浅利正さんも『民主文学』(1992年7月号)で「日立・田中裁判のあとさき」(同書所収)を描いている。
日立争議団の皆さんがどのような人たちなのか、本書では、本文中にカッコ内に出身学校を明記している。第1章「青春」、第2章「活動」から順に拾ってみた。
「中川進悟(都立北豊島工業高校卒)、塩沢正夫(都立中野工業高校卒)、日立工業専門学校、大川武宏(国分寺市立中学卒)、技能者養成所、日立武蔵女子高等学園、佐竹光生(愛知県立岡崎工業高校機械赤卒業)、永井孝二(中卒、日立工業専修学校)、赤川博(北海道立穂別高等学校卒)、渡部則男(北海道立下川高校普通科卒)、馬場豊彦(福島県立平工業高校卒)、宮尾則伸(都立本所工業高校卒)、中村治郎(福島県立川俣高校機械科卒)、斉藤久男(埼玉県立秩父農工高校卒)、植木日出男(兵庫県立龍野実業高校電気科卒)、大内健次(茨城県立大子第一高等学校卒)、堀啓一(山形県立酒田工業高校卒)、堀口暁子(都立武蔵高校卒)、酒井清志(長野県立長野工業高校卒)、高野勝義(埼玉県立熊谷工業高校卒)、鈴木正彦(中卒、日立工業専修学校)、真坂秀男(秋田県立矢島高等学校卒)、飯田武(日専校卒)、青田正芳(福島県立相馬高等学校卒)、井川昭雄(長崎県立長崎工業高校卒)」と。
日本の大企業は、高度成長期に全国の農村部(都市郊外エリアも含めて)から優秀な子弟を北から南から集めて、資本蓄積(会社規模の巨大化、グローバル産業としての対外進出の原資)と大量生産・大量消費の担い手を培ってきた。
その企業社会の変化・発展がひきおこす矛盾を一身に受けた世代が、上記に書かれた労働者階級の面々なのだ。だから戦後2回目の資本の苛烈なる攻撃を受けた、当事者だった。
最後のインフォーマル組織による組合活動家差別事件で、現在もたたかっている明治乳業労働者の姿と、まったく共通するものだ。
「インフォーマル組織の過去・未来」のページ
http://e-kyodo.sakura.ne.jp/roudou/informal.htm
明治乳業争議団員リポート記
また「日本の農村に貧困化がなくなった」と書かれた岩波新書『戦後史』(中村政則著、2005年7月)が描いた時代の前の出身者なのだ。
その後の「受験社会・競争社会の主人公」として人生を出発し、大学生17パーセントの「団塊の世代」の「高度消費社会」を受容し、企業社会への埋没する人生観とは、根本が違っていた。
文部科学省 進学率/年度大学生数推移
本書では、このように語られている。
「日立争議団の多くは、一九四〇年から四五年、昭和でいうと一五年から二〇年の間に生まれている。一九四五年は日本がポツダム宣言を受諾し、連合軍側に無条件降伏した年である。これで第二次世界大戦は終息した。戦争が終わった後の数年間に生まれた世代は、成長して「団塊の世代」と呼ばれるようになったが、日立争議団はそれよりさらに若干さかのぼった世代である。
日立争議団の多くは戦争の末期に誕生し、幼年期を戦後の混乱とひもじさの中で過ごした。戦争は彼らの両親のような庶民の家庭生活を圧迫し破壊すると同時に、民主主義と個人尊重の思想を根こそぎ否定した。生活の破壊と民主主義の否定は戦争という同じ根っこから発生している。争議団員たちは幼年期に戦時体験をした最後の世代として、民主主義と個人尊重恩想の大切さを幼い頭に刻みつけて育った。
そして彼らは教育基本法に基づいた新しい教育制度の下で小学校に入学する。四七年三月に公布された教育基本法は、前文・第一条で教育の目標を「民主的・平和的人間像」においた。さらに、教育の機会均等(第三条)、教育行政における不当な支配の排除(第一○条)を明記した。これは主権在民をうたった新憲法の精神であり、民主主義の徹底と個人の尊重を何よりも大切にしたものであった。後に日立争議団を形成することになる彼ら少年少女たちは戦後民主教育の躍動期の中で学び、「民主主義と平和」「個人の尊重」の思想を心に根づかせて学校を卒業した」
社会運動史・労働組合運動史の側面から、また会社(資本)の側の苛烈なる攻撃対象になっていった背景を、次のように語っている。
「六〇年安保闘争は、日本の大企業にとつても彼らなりに学ばされることが多かった。戦後急激に昂揚した労働運動は、二・一ゼネストの挫折、松川・三鷹などの謀略事件、レッドパージ、大型争議の鎮圧などであらかた沈静化した。労働運動の指導組織も「産別(会議―編集子)」が崩壊し、五〇年の総評誕生に見られるように反共的労使協調型労働組合が主導権を掘った。経営者たちはほっと一息ついていた。
そこへ降って湧いたような六〇年安保闘争だ。息の根を止めたと思った労働運動が政治闘争化して復活した。なかでも経営者たちを震え上がらせたのが、大企業で働く青年労働者たちの台頭だった。青年労働者は高度経済成長を支える大量生産・大量消費の担い手だ。彼らが労働組合に理想を求め運動を活発化させるのは大企業の経営者にとって死活問題に思えた。
大企業の経営者は青年労働者を労働運動に駆り立てている元凶は、日本共産党とその青年組織の民主青年同盟 (民青)だと決めつけた。共産党・民青の影響力を労働組合や職場活動から排除することが労使関係の安定、ひいては企業の繁栄につながると考えた。この大企業経営者の不安に悪乗りして、共産党・民青を今にも会社をつぶし暴力革命を企てる赤鬼集団のように描き出す反共グループや労務屋が横行した。どこの会社でも競って彼らが主催する反共講座等に人を送った。そしてますます共産党・民青に対する恐怖心と敵愾心を植えつけられて帰ってきた。それは実態がデフォルメ(対象を変形・歪曲して表現すること――編集子)された虚像だったが(中略)。
本書は、高度成長期、その後の社会変化の中で、一人ひとりの社会変革への願い、職場の民主化、賃金・労働条件への同権化へむけた取り組みと、会社のさまざまな「隔離・差別政策」・解雇攻撃、男女差別政策とたたかい、長期にわたる争議を経て、2000年9月に和解した姿を描いている。
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