今崎暁巳さんと私
柳澤明朗さんが亡くなり(柳澤明朗のページ)、“やなさん”の盟友・今崎さんに教わってきた編集子の思いを過日に書いた文章だがUPしたい。
[初出]『今崎暁巳さんと私』(A5判、132ページ)は、140名の方から、それぞれの思いが寄せられました。
職人的編集者のきっかけをつくっていただいた●飯島信吾
私には、若い時に出会っていなかったら、「職人的編集者」(エディター)にはなれなかっただろうと思える人がいる。木檜哲夫さん(労働旬報社代表・当時)、川﨑忠文さん(同編集部・当時)、柳沢明朗さん(後の労働旬報社社長)、中林賢二郎先生(法政大学)、そして今崎暁巳さんです。
今崎さんは、60年代後半から出版界で数多くうまれた「ルポルタージュ」という方法で、著作を始めた人でした。第一作の『コブだらけの勝利』で現場に連れて行っていただき、原稿運びをした経験が、最初です。
しかし、編集者として、事実を発見して時代のテーマにマッチして、読者を見つけるには相当、時間がかかり、30代になって、やっと今崎さんに書いていただいたのは、沖電気の大量指名解雇事件(『なにをみつめて翔ぶのか―沖電気指名解雇をこえて』〈労働旬報社、1980年〉)と、大企業における人間らしい生き方を訴え、たたかいをすすめていた日本航空労組のみなさんと出版した『ドキュメント・日本航空―国民の翼をめざして』(労働旬報社、1982年)、そして薬害スモンとのたたかいを描いた『この人生に愛なくば―いのちと自立のうた』(労働旬報社、1981年)です。
当時、労働関係編集者として、これらの素材と事実を学んだのは、東京の中心部で起こった千代田総行動(東京争議団を核とした東京総行動に発展)からです。この運動には、人間的で大衆的な統一をめざす労働組合づくりの胎動があり、その事実と読者を結びつけてくれたのは、今崎さんのルポでした。
その後、おたがいの道を歩んできましたが、東京争議団を経験したリーダーが組織した、非正規労働者を中心とした首都圏青年ユニオンのたたかいを描いてほしいと話し合ったのが、最後でした。 (元労働旬報社編集部・シーアンドシー出版)
本文は「今崎さんと私」に書いた文です。
http://e-kyodo.sakura.ne.jp/imazaki/index.htm
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