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2012年11月18日 (日)

野田首相の思想と行動――松下政経塾とは―Ⅰ

 以前、有田芳生さん(民主党参議院議員)のブログ(有田芳生の『酔醒漫録』、2010/01/30)で民主党の構造は、3層あるという分析・渡辺治教授の最終講義――(《「悩みながらの構造改革派」(指導部)、「民主党による利益誘導型政治」(小沢グループ)、「個々の福祉政治実現型」(長妻、山井など)と腑分けする。渡辺さんの表現では「頭部」「胴体」「手足」である。私がこれまでも主張し、これからも取っていくスタンスは「福祉政治実現型」だ》を読んだことがあるが、「松下政経塾」出身者は、「悩みながらの構造改革派」なのか、よく分からなかった。

 

  http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2010/01/post_d9f7.html

 

 

 

 菅直人が首相になったときは、図書館から『政治家の人間力――江田三郎への手紙』(責任編集・北岡
和義、明石書店、20071012日)を借りてきて一読したが、「1960年代の構造改革派」のようには決してならなかった。

 

 http://www.eda-jp.com/saburou/30-100/index.html

 

 

 

さて「松下政経塾」というのはなんのか? 知りたくて、この間、ジャーナリスト・出井康博さんが書いた2冊の本『松下政経塾とはなにか』(新潮新書、2004年11月)、『襤褸の旗――松下政経塾の研究』(飛鳥新社、2012年2月)を読んでみた。

 

前者は松下幸之助を中心に書かれており、巨額な資金が出され、政治家養成を試みた話が中心だった。記憶に残ったのは、「無税国家論」だ。

 

後者の本では、野田首相の「志士の会」のときのアピール文(『日本プライド構想――コンセンサスの政治より、信念の政治を』、1997年)が掲載されていたので、ここに引用しておく。原典をインターネット上で検索したが、今の段階では調べきれていない。

 

なんと、司馬遼太郎文学を下敷きにした「安サラリーマンの処世術」の文章ではないか。

 

 

 

〈日本が危ない

 

 この国の危機を、我々はもはや見過ごすことができない。新しい時代の扉を開き、新しい日本を築くため、若い力が立ち上がる時が来た。

 

 長引く景気低迷は解決の緒すら見えず、国民の不安は日に高まるばかりである。国家財政は破綻の一途をたどり、このまま放置すれば、そのツケは次世代が背負うことになる。政・官・業の癒着は目に余り、続発する不祥事は、わが国指導者たちの質的劣化の現れである。未来の日本を担うべき子どもたちは刹那の海でおぼれ、健全な精神を失おうとしている。

 

 事態は深刻である。しかるに、国を導くべき指導者たちは時代認識に暗く、国の将来を見定めたビジョンをもたない。政党は相変わらず政権をめぐる醜い争いに明け暮れ、政治家は議席を守ることに汲々とし、官僚は保身のために前例主義と省益とでしか物事が決められない。

 

 もはや座視している時ではない。誰かが先陣をきって立ち上がるべき時である。このまま時を空費していれば、この国はたちまち深い奈落へ落ちてしまうだろう。「持ち時間」は僅かしかない。時代はまさに二十一世紀の大晦日である。溜まったほこりを払い、こびりついた汚れを拭う「世紀の大掃除」は、国力がまだ残っている今こそ取り組まなければならない。

 

我々がめざす理想の社会は、他人の自由を侵さない限り個人の自由が保証され、またすべての人に機会の平等が約束された『自由社会』である。それは個人が自己責任のもとに、自身の人生を自由に選択できる、『夢と志の生きる社会』である。国会の役割は最小限にとどめ、個人の活動や生活に介入してはならない。

 

しかし現在の日本は、網の目のように広がる規制や厚く堆積した既得権益が、国民の自由な経済活動や社会活動を阻害していて、理想とは逆の閉鎖社会に陥っている。こうした状況を打開し、理想を実現するためには、国のしくみを根本から変えるような大胆な改革が必要である。

 

国家財政に寄生する業界を排除し、グローバル・スタンダードに基づいた、透明で公平な経済システムを構築し、活力に満ちた新規企業が次々と育つような土壌にしなければならない。次代に借金を残さないため徹底的な行財政改革を行い、効率的な国家経営を可能にする体質に改めなければならない。霞ヶ関が自由な経済活動を過度に統制したり、地域に根ざしたまちづくりにまで深く介入するような集権体制を破砕し、自由と機会に満ちた経済社会、分権型社会を創らなければならない。

 

また、人々が最期まで安心して暮らせる、自主自立を前提とする豊かな福祉社会を築かなければならない。自然と環境を守り、地球を美しい姿のままで後世に残さなければならない。戦後教育の至みを根本から見直し、子どもたちの心の中にナイフが巣食うような社会と決別しなくてはならない。

 

時代の端境期に生きる我々は今、歴史的決断を迫られている。もはや弥縫策の積み重ねでは、次代に輝かしい未来を招来することはできない。日本のしくみを根底から変える、まさに革命ともいうべき劇的変化を成し遂げるしかない。それが担えるのは、特定の利益にとらわれない、利他の精神に溢れた政治集団だけである。自己を犠牲にしても他人や社会のために尽くすという強い意志こそが、時代が求める改革者の要件である。

 

すべての国民に考えてほしい。「特定の集団や特定の地域の利益代表が、数多く国会に送り込まれるのはなぜか」と。それは国家から自立した多くの人々よりも、国家に甘えすがる一部の人々の声の方が大きいからだ。国民の諦めと無関心とが、国民不在の古い政治体質の延命に手を貸していることに気付いてほしい。この国のかたちや自分たちの未来を決めるのは、国民の自覚ある行動と賢明な選択でなければならない。国民が主体である。真の民主主義国家を共に築こう。互いの自由を尊重しあい、主権者としての責任を自覚する真の主権在民国家を共に創ろう。

 

徳川幕府の末期は、政治、経済、社会など、すべての面に至みが生じていた。それらを一掃し、新しい国家建設をめざして一群の若者たちが立ち上がった。その先頭に立った坂本龍馬が姉に送った手紙に、「日本を洗濯致し申し候」という言葉がある。明治維新とはまさに、命を懸けて国を救おうとした若者たちの純粋な利他の精神が、日本という国の丸洗いを可能にした大事業だったのである。翻って現在の日本も、幕末同様、国の様々なシステムが機能不全に陥り、構造改革の必要に迫られている。再び国を丸洗いすべき時が来たのだ。

 

 

 

「いま一度日本を洗濯致し申し候」これが私たちの志である。

 

 

 

ここに、名もなく地位もないが、ただひたすらに日本再生のため、「二十一世紀維新」に身命をささげようという改革者の結集体として、「志士の会」を結成する。

 

志を同じくする人々は老若男女こぞって結集してほしい。日本をよくするために、力ある人は力を、知恵ある人は知恵を、資力ある人は資力を、是非、私たちに貸してほしい。

 

若い力の疾風と心ある国民の怒涛とが重なった時、必ずや新たな歴史が開くと確信している。

 

 

 

 出井さんは次のように一言語っている。

 

《以上が、当時四十歳だった野田が執筆した文章だ。

 

「志士の会」という名称が象徴するように、野田らは明治維新に強い憧れを持っていた。趣意書には、坂本龍馬の有名な言葉も引用されている。つまり、自分たちこそ現代の「龍馬」だというわけである。このメンタリティこそ、野田に限らず、「松下政経塾」の真骨山なのだ。

 

力の入った文章だが、かなり自己陶酔的でもある。幼いといえば、幼い。ひとことで言えば、空疎なのだ。》

 

 

 

これでは、あの60年代末の東大闘争をくぐり抜け、自民党政治を動かした「ハイパワーエリート官僚勢力」とその末裔に勝てるわけがない。

 

消費税もオスプレイ配備もTPPもエリート官僚の指図で、動かされるはずだ。

 

 

 

 次の総選挙が始まっているが、石原慎太郎閣下や橋下次期首相候補にしても、「30年前の司馬遼太郎文学」を超えたキーワードで語ってほしい。

 

 「関が原」「義経」「坂本龍馬」「翔ぶが如く」をしこたま読んで、酒場でおだ上げて、1970年代から1980年代に語っていた人たちはすでに「鬼籍」に入っている人が多い時代なのだから!

 

 

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