故・菅野正純さんの思いの一端
菅野正純さんは2008年1月11日に亡くなった。その前年に倒れて入院加療中だった。
私たちにとって、2007年のときの入院については、「日本労協新聞」に発表されるまで知らず、あまりにも突然だった。その病院は何年か前、編集協力者のSさんのお見舞いに行った同じところ。
病院は、渋谷駅から都営バス・国学院大学経由で細い道をくねくね曲がって、15分ぐらいでいく。
着くと病室には家族がいなくて、彼と二人きりで対面した。
頭を坊主頭にして、言葉を発せない彼は、私の顔を見て、かすかな記憶をたどっているようだった。
こちらから少し言葉を出したが、どこまで認識されたのか。彼のほほを思わずさわり、「早くよくなってくれよな」という言葉しか言えなかった。
家族にお見舞いに来たメモを残し、辞去したが、数ヵ月後、松沢常夫(「日本労協新聞」編集長)さんから「意識も少しずつはっきりしてきた」という朗報を聞いていたので、安心していたのに残念だった。
初めてあったのは1980年代初頭。松沢さんから、「イタリアの協同組合論を翻訳出版している」という紹介だった。
菅野さんと私は、歳が数年しか違わず、編集者生活では年下の著者としては、初めての人だった。
「へぇー、イタリアね」というのが私の初印象だった。
出版界ではかの昔、イタリアの社会科学本をたくさん出した合同出版(現在の同名の出版社は、歴史的にはつながりがあるようだが、私の知り合いが引き取って、別の出版社となっており、数多くの本を出している)が著名だったが、その他では一部の研究者たちが「グラムシ」関係の論説を展開していただけだった。
但し、私はその少ない関係者の人との出会いがあったので、違和感は感じなかった。
しかし、「イタリア協同組合」についての知識は皆無だった。この後は別に書かなくてはならないなー。
『仕事おこしのすすめ』(シーアンドシー出版刊)を書いていただいた京都大学名誉教授の池上惇先生は、追悼文の中で“菅野君は当時の流行的風潮には断固として反対し、イタリアの生産協同組合が現実に飛躍的な発展を遂げ、社会構造の中で、確固たる定位置を獲得していること、その理由は、労働の質が普通の企業とは違っていて「ともに働き、共に育ちあう」労働であることを発見した(労働者協同組合の理論の推進、2008年3月7日)と書かれている。
また“しかし君は、労働者協同組合運動が地域に根ざし、各地の生命とくらしを守る現場の労働を組織して、 ひろく市民やコミュニティの共感を得てきたことを自らの実践において示すことが出来た。
これは君が組織した労働が、人々の期待にこたえ、ともに育ちあい、人間としての創造性をにない得たからである。
さもなければ、このような支持は得られなかったであろう”、と(同前、3月8日)。
亡くなったあと、彼の遺稿集を出さないといけないのでは、と心に引っかかりながら、私自身、出版社を閉じて、その精神的元気さがなく、今日まで来てしまった。
菅野さんが『仕事の発見』(第2期)に書き続けた原稿とそのテーマについて――高齢者・障がい者・子ども・青年を協同の力で、ネットワークして社会的排除をゆるさない「地域福祉を創造する協同組合」づくり――知っていただきたく、別のページにリストを編んでみた。
http://e-kyodo.sakura.ne.jp/kanno/italy.html
日本労協連に行けば、読めるはずだ。
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