本屋で立ち読みした『旅する力――深夜特急ノート』(新潮文庫版)の最初に開いたページ(p58)に、なんと身近な人だった(故人)、「太田欣三」という名前が書かれていた。
ウィキペディアによると(よらなくても)、『深夜特急』は、“作家・沢木耕太郎による紀行小説である。産経新聞に途中まで連載された後、1986年5月に1巻・2巻(第1便・第2便と称す)が、1992年10月に最終巻(第3便)が新潮社から刊行された。また、新潮文庫からは6冊に分冊化されるかたちで単行本として出版されている”。
これまで多くの読者に読まれている沢木さん。作家としての「揺籃期」に「ボクサーとトレーナーのような関係にあると見えていたかもしれない」と書かれている編集者、それが太田欣三さんだ。
太田さんは、60年代末、日本読書新聞からTBS発行の『調査情報』誌に移った編集者だった。
沢木さんは「太田氏にセンテンスは短くしろと言われつづけた。過剰な修飾語を排せ。修飾したければ修飾語でなく前後のセンテンスで説明しろ。
太田氏は私が徹夜で原稿を書くのに付き合ってくれただけでなく、書くのが遅れれば平気で雑誌の発行日を延ばしてくれた」
沢木さんが「深夜特急」を書くきっかけになった、「アジアからロンドンへ」から帰ってきた1970年代半ば、2本の原稿を『調査情報』書いた後、「あの雑誌には、もうお前さんに書かせてやれるページはないんだよ」と別れを告げられた(同書p233)、と書く。
「太田氏は、私に面白がり方の技術を教えてくれただけでなく、またシャープでストレートなジャブの打ち方を教えてくれただけでなく、ジャーナリズムにおける身の処し方を黙って教えてくれたのだ。いや、それはジャーナリズムの、という限定をつける必要のないものだったかもしれない。私は人生における潔さというものを学んだ」(p234)
自宅にあったおびただしい本群は、そのベースをつくったのだろう。この時代は「義兄」だったが、まだ自分は青春期だったので詳しく話したことがなかった。
しかし、私の姪と甥っ子は、このような親父を持っていたんだ。
講談社のHP(講談社の新ノンフィクションメディア『G2』。)にも、沢木さんの「極楽とんぼ――あるいは、ある編集者の死」でその思いが書かれていた。
講談社のHP(講談社の新ノンフィクションメディア『G2』。)にも、沢木さんの「極楽とんぼ――あるいは、ある編集者の死」でその思いが書かれていた。
▼追記 太田欣三さんは、実は無明舎出版刊『江戸の極楽トンボ』『嘉永5年東北』の著者である(織田久はペンネーム)。
「無明舎出版のブログ」でも紹介(「んだんだ通信、「三歩今日」、2018年か――2018年は、明治改元(1868年)から150年目)。
10月×日 沢木耕太郎『銀河を渡る』読了。最終章に、うちの著者である故・太田欣三さん(筆名 織田久)への長いオマージュがあった。太田さんは元「調査情報」編集長、若き沢木耕太郎を見出した人で、生前の太田さんに誘われて、私自身も沢木さんと一緒にお酒を飲んだこともあったナァ。
http://www.mumyosha.co.jp/topics/18/wi/ndanda.html
「週刊んだんだNEWS」(無明舎出版、Vol.438 09年2月7日 週刊あんばい一本勝負 No.433)で紹介。http://www.mumyosha.co.jp/weekly/438.html