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2010年12月

2010年12月29日 (水)

「今崎暁巳さん逝く」Part2

 今崎さんの主な仕事は、インターネットが登場し、一般庶民の間に広がった「Windows95」以前だったので、残念ながらその業績に対する「共感応答関係」は、少ない。

 しかし、YahooGoogleなどで検索してみたら、以下のように「労働者」のなかで脈々として、現代につながっていることが分かる。

 「高度経済成長社会」のなかで、人間讃歌と人と人のつながりを描きつづけた作品が、普通に生きる人びとの「人生の糧」として生き続けてほしい、と願っているのは、ボクだけではないだろう。

西淀川労連のHPより(元のアドレスは、下参照) 

http://nishiyodo925.web.officelive.com/201012.aspx

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『娘たちは風にむかって』のポスター

2010.12.7 2011年西淀川春闘共闘立ち上げ映画上映会:『娘たちは風にむかって』 

12月1日(水)、西淀川春闘共闘の立ち上げ映画上映会が開かれ、11団体・労組21名が集まりました。西淀川の労働運動の歴史を学ぶ学習会として、労働組合だけでなく新聞折り込みをして広範囲に参加を呼びかけました。

 映画の舞台になったのは、大阪・西淀川区にあった大建被服という被服工場で実際に起こった争議を素材に、今崎暁巳が脚本を執筆。監督は「母のない子と子のない母と」など民芸映画社の作品を多数手がけた若杉光夫。撮影は井上莞がそれぞれ担当したものです。

 大建被服西淀川工場の従業員たちは突然、工場閉鎖、全員解雇を言い渡されました。総員63名、大半が中学卒業後の女子でありました。その大半はすずめの涙ほどの退職金で辞めていきましたが、8人の彼女たちと1人のおばちゃんは“乙女争議団”と世間から呼ばれる組合を結成し、頑張った姿を描いた映画であります。映画の題名は『乙女たちは風にむかって』です。

 プロジェクターの調子が悪く、何度も映像が切れてしまい、最終的には小さなテレビ画面で観るというハプニングもありましたが、映画の内容とあわせてそれがまた参加者の団結を強めたのではないかと思います。

  41年も前の争議を題材にした映画でしたが、参加者全員が「観てよかった!」と思える内容で、いまにつながる話がたくさんありました。

 映画終了後には、2011年春闘共闘の役員体制を確認、森田敏明新議長の閉会あいさつと団結がんばろうで2011年春闘をみんなでたたかおう!と決起しました。

   ◇「ある編集者のブログ」より            

「今崎暁巳さん逝く」 10/12/26
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-084c.html

「今崎暁巳さん逝く」Part2 10/12/29
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-0157.html

「今崎暁巳さん逝く」Part3 11/01/07
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/part-01e7.html

今崎暁巳さん(ドキュメンタリー作家)の主な雑誌掲載のルポ・評論集を発見 11/01/22
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-f885.html

今崎暁巳さんのルポ論が残したもの――プロレタリア文学のルポ論を継承するために 11/07/09
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-802c.html

2010年12月26日 (日)

「今崎暁巳さん逝く」

▽追記:今崎暁巳さんと私[2018720 ()

 

 http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-a56a.html

 

 

 

 1215日、ドキュメンタリー作家の今崎暁巳さんが、ご逝去されました。80歳でした。

葬儀は家族葬ですませたそうです。

 以下のように、数多くの単行本とテレビ、映画などのシナリオを書き続けていました。

 謹んでご冥福をお祈りします。

 なお、2011年6月4日(土)に「故・今崎暁巳さんと語り合う会」を開く、実行委員会(実行委員長・柳沢明朗さん)が有志で作られました。

 決まりしだい、呼び掛けさせていただきます。

 

□1960年代末から70年代

『コブだらけの勝利――闘う青年労働者』 (労働旬報社、1969)

『職場の青春―闘う信越放送労働者』(労働旬報社、1970)

『めしと団結―たたかう関扇運輸労働者』(労働旬報社、1970)

『いのちの讃歌 』 (労働旬報社、 1970/12)

『伊那谷は燃えて―辰野事件。その被告と家族』 (労働旬報社、1972) 今崎暁巳著・ 辰野事件千代田守る会協力

『千代田丸事件―ドキュメント』 (現代史出版会、1974)

『吼えろ青春―70年代に生きる青年労働者』 (労働旬報社、1975)

『友よ!未来をうたえ―日本フィルハーモニー物語 』(労働旬報社、1975)

『三菱帝国の神話―巨大独占企業の現場・労働者群』(労働旬報社、1976)

『若者はいま歩みはじめる―高校生活への挑戦』(労働旬報社、1978) (若者とともに生きかたを考えるシリーズ〈1)

『友よ!未来をうたえ〈続〉―日本フィルハーモニー 』(労働旬報社、1977)

『いのち萌え―おかあさん身体がなければよかったね』 (労働旬報社、1979)

□1980年代

『なにをみつめて翔ぶのか―沖電気指名解雇をこえて』(労働旬報社、1980)

『この人生に愛なくば―いのちと自立のうた』 (労働旬報社、1981)

『故郷は緑なり』 (1982) (労働旬報社、1982/2)

『ドキュメント・日本航空―国民の翼をめざして (労働旬報社、1982)

『われら熱き日々をいま!―ルポ・青春の群像 』(新日本出版社、1983)

『新世界へ―日本フィルの旅立ち』 (労働旬報社、1984)

『高校生の午後―ある受験生の旅立ち』 (労働旬報社、1984) (青春ライブラリー)

『暮らしのルネッサンス―生活をつくり変える女たち』 (労働旬報社、1984)

『暮らしと女と街づくり―協同のネットワーク』(現代社会を考えるシリーズ (6)) 今崎 暁巳・二宮 厚美共著、労働旬報社、 1986/1)

『お母さんきれいだね』(日本生協連、1986年)

『すてきな出会い―協同する私たち』(全国大学生活協同組合連合会、 1987/7)

『すてきな大学―キャンパスに協同を求めて』 (UNICO BOOKS) (全国大学生活協同組合連合会、1989/1)

『夢を、もっと大きな夢を―東都生協「産直物語」』(富民協会、1989/10

□1990年代

『生活ごいっしょに―ふれあいからつながりむすびつきへ』(労働旬報社、 1990/3)

『人生いつも素人―弁護士尾崎陞の挑戦』(シリーズ時代を創る人びと) (あけび書房、1992/12)

『いのちの証言―私は毒ガス弾を埋めました』 (ふきのとう書房、 2006/6)

『北の砦―ルポルタージュ鳥生忠佑と北法律』(日本評論社、 2009/6)

テレビ、映画関係・脚本(シナリオ)

テレビ

判決(日本教育テレビ、現在の「テレビ朝日」)にシナリオ作家として参加。

1962年(昭和37年)1016日から1966年(昭和41年)810日に、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)で放送されたテレビドラマ。全200回。

脚本

「娘たちは風にむかって」(監督: 若杉光夫、配給: ほるぷ 1972)

「あしたの火花」(1977)監督:橘祐典  日本造船機械労働組合と共同映画の提携作品)

「巣立ちのとき 教育は死なず」(脚本・監督はこの作品がデビュー作となる板谷紀之、1981)

「日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章」(神山征二郎氏と今崎暁巳さんの共同執筆、監督:神山征二郎、1981)

原作

「日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章」(1981)

スクリプター/記録

「巣立ちのとき 教育は死なず」(1981)

  (以上はこれまで判明したテレビ、映画・脚本、出版物、そのほかです。訂正があればご連絡ください。事務局・飯島信吾)

『新たな連帯を求めて―現実に迫るルポを』(学習の友社、1978/07

   

  ▽追記

   
   今崎暁巳のページ


◇「ある編集者のブログ」より            

「今崎暁巳さん逝く」 10/12/26
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-084c.html

「今崎暁巳さん逝く」Part2 10/12/29
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-0157.html

「今崎暁巳さん逝く」Part3 11/01/07
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/part-01e7.html

今崎暁巳さん(ドキュメンタリー作家)の主な雑誌掲載のルポ・評論集を発見 11/01/22
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-f885.html

今崎暁巳さんのルポ論が残したもの――プロレタリア文学のルポ論を継承するために 11/07/09
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-802c.html

 

2010年12月13日 (月)

ベトナムへの現代的支援・異見

 1960年代から1970年代に「ベトナム反戦」を主張した人は数多い。

 そのときの「ベトコン」という言葉は、覚えやすかったが、「南ベトナム解放民族戦線」か「南ベトナム民族解放戦線」という論争があった。

 大手一般紙なども後者の間違いを流していたことを覚えている。

 

 さて、その「反戦」を主張した人たちも、社会的には、ほぼ定年を迎えている。

 そこで、今のベトナムに必要な支援をいっしょに考え、協同の行動を行う人をもとめたい。

 ▽ライフラインとしての「上下水道」建設を支援できないか。

   日本の水供給システムは、世界一の「安全・安心・安定供給」力があるが、ODAとして支援できないか。

 

 日本では水事業の大半は、「公務員」が担っているが、日本で「赤字」をつくるより海外、特にベトナムに出て行って、支援できないか。

  旅人として、「水をそのまま飲めない」状況はなんとも、解決してほしい。

 

▽電力は、いまは水力発電と火力発電であるが、「停電」がある。

 世界中から「原発」を受け入れているベトナムで、他にないか、だれか考えてほしい。

▽日本の新幹線を、「ホーチミン・ハノイ」間につくることが議論されている。

鉄道を核とする交通システムの確立について、知恵の協力ができないか。

 

  ▽ベトナムは若い国で、戦後生まれ(1975年)が過半数を超えたという。しかし、ハノイの都市部では、高齢者が増えているのを垣間、見えている。

  これからの「ベトナム式高度成長社会」のもとで、都市への労働力の集積と比例して、かならず「核家族化」が進行していく。

またそのもとで儒教社会を超えるスピードで、「高齢化」すすみ、高齢者施策がもとめられてくるはずだ。

閑話休題

バイクが滝のように流れるベトナムの道路をどのように渡っているか、おもしろい動画がある。

私たちは、「ベトナムのおばさん」の横にくっついて渡るよう、ガイドさんから教えられたが。

■車にはねられないのが奇跡と思えるベトナム・ホーチミンの横断歩道(動画)

http://labaq.com/archives/51531057.html

 

  ▽追記:小松みゆきさん原作の本が映画になるというビッグニュース  

      (2014.09.24)

 

  http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-b7a5.html

  ▽知っておきたい「現代政治・戦後史のページ」(2014.10.21)

  ベトナム反戦のページ

 

 

 

2010年12月11日 (土)

視覚障がい者のための自立支援のたまり場

  越谷市には、県下でも貴重な“社会資源”としての視覚障がい者の通所・訓練施設がある。

 越谷市民を対象としている「地域活動支援センター」として2010年春に指定された施設だが、通所者は、草加市や杉戸町の人もいる、ニーズの高い施設になっている。

 運営母体は、昨年できたばかりの「NPO視覚障がい者支援協会・ひかりの森」

 場所は、東武伊勢崎線・越谷駅東口下車5分のところにある。

 ロービジョンの人などの相談も広がっている。

主な訓練と授産活動は以下の通り。

月曜日:点字(月1回は触読)

火曜日:音声パソコン

水曜日:調理訓練(月に1回)

木曜日:歩行訓練

不定期:生活訓練(ハンドライティング、裁縫他)

授産活動

点字名刺プロジェクト

(点字入り名刺作成・既成名刺への点字加工)

その他

サウンドテーブルテニス(金曜日月2回)

スポーツ吹き矢(不定期、月に1回)

地域活動支援センター・ひかりの森

NPO視覚障がい者支援協会・ひかりの森

所在地  埼玉県越谷市弥生町1丁目9番地 山﨑ビル2F

電話   048-962-9888

代表者氏名 松田 和子

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NPO視覚障がい者支援協会・ひかりの森 創立記念イベント――「きぼう 林隆三と共に」(2010・7・26、越谷サンシティ小ホール)

2010年12月 5日 (日)

ホイアン―ベトナム再訪問5

  最後の訪れたのは(2010・11・10)、昔懐かしい日本の風景が残る、ホイアン。

旅の中で『覇王の夢』幻冬舎[文庫](津本 陽著)の本を読んだが、織田信長を描いたこの本の中で紹介されている堺商人は、当時、東南アジアの呂宋島に数千人進出していることを描いている。

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その中には、安南(ベトナム)にも、もちろん多数の堺商人がいたという。

  その商業港として「ホイアン」がある。

ホイアンは、朱印船貿易で交流し、この地に大規模な日本人街や中国人街が形成された。

江戸幕府の鎖国により日本人の往来が途絶えたが、街並みは残され、ベトナム戦争時代に破壊されることもなく、現在までその町並みを伝えている。

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来遠橋(日本橋) 中国風の屋根付橋だが、1593年に日本人が建設したと伝えられる。

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日本人街のなごこりか。

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2010年12月 2日 (木)

ヘエ―ベトナム再訪問4(2010・11・09)

今回は、ベトナム中部の「ベトナム最後の王朝、阮(グエン)朝の古都フエ」を訪問したかった。

フエは、1802年から1945年まで13代続いた阮(グエン)朝の都が置かれていた古都である。

世界遺産に登録された、古都フエの持つ荘厳な雰囲気には圧倒された。

王宮は、520haもの広大な敷地があり、江戸時代・明治維新の時代には、ほぼ完成されたという。

その後、フランスとのインドシナ戦争で一部破壊され、その後、アメリカとの解放戦争時に、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)が占拠して、アメリカにより徹底的に破壊された。

現在、少しずつ復旧されていた。日本のODAはここに注がれるべきだ(少額が入っているかもしれないが)。

またフエは大学もあり(ホー・チミンや軍事指導者のボー・グエンザップなどが卒業した高校<専門学校?>がある)、フエ病院なども有名である。

アジアの歴史を、高校・大学とほとんど勉強しなかったことは、アジア人の一人として、反省せざるを得ない。

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ベトナム国旗を翻したフエ旧王宮

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フエ旧王宮の堀の大きさが見られる。

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