先週の土曜日は、「せんげん台世一緒本部の内覧会」と「まちづくりフォーラムin越谷」があったが、それには参加できずに「内山光雄のページ」(元私鉄総連副委員長・元総評副事務局長)企画会議のために都内へ出かけた。
まだ現役の編集企画会社を運営していて、本企画のカギを担う主たるコーディネータのMさん(元労働教育センター編集者)の都合に合わせた。
この段階で「内山さんの仕事から学ぶ意味」を再度、確認している背景には二つの要因がある。
その1は、今まで紹介してきた「永戸祐三さんの本づくり」で出合った連合関係者(「内山学校で学んだ人」)から「労働者協同組合の歴史の前提に、中西五洲(全日自労委員長)と内山光雄、それに内山達四郎(総評副事務局長、元全国金属副委員長)」(敬称略)の3人で「総評解散前の副事務局長体制が実現されそう」だった、というコメントであった。
私は、中西五洲さんの『労働組合のロマン』(労働旬報社、1986年)の編集をしていた時に聞いていた話を思い出した。
◇2017年4月30日 (日):君は知っていますか「全日自労」という労働組合
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-630a.html
その当時、「共産党が総評右転落」と大宣伝をしていたが、連合化の道で、総評は解散した。
そのために、この3者体制実現がとん挫したわけだ。
タラレバの話だが、実現していたら「総評解散」はなかったのではないか、と思った。
その2は、「Windows95」の登場で、それ以前の労働運動史の格闘が見えなくなっているのではないかと、「現代労働組合研究会のページ」を始めた。
http://www.e-kyodo.sakura.ne.jp/roudou/union-top.html
2010年代半ば、ある青年組合活動家からメールが入り、何回かのやりとりで「中西五洲」と「内山光雄」から様々な学びがあるという知らせを、続けてコロナ禍前にあった。
2017年9月21日 (木):ある青年からの激励のメール――ありがとうございます
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-04f6.html
この声にこたえ、「4割になる非正規労働者の組織化」をアシストするのが編集者としての役割だと思い、「内山光雄のページ」の企画し始めた。
その「試験版ページ」は、次の通り。
http://www.e-kyodo.sakura.ne.jp/utiyama/index.html
▽参考:【投稿】内山達四郎さんを偲んで
https://assert.jp/archives/5244
投稿日: 2000年3月25日 作成者: 立花 豊
【投稿】内山達四郎さんを偲んで
昨年11月のはじめ、内山さんの訃報が届きました。
内山さんの文章は何かで読んだことがあったにせよ、実際にお会いする機会もなく、ぼんやりと労働運動の闘士のイメージを思い描いていました。その後、私は仕事で東京へきてからおよそ25年になりますが、お会いできる機会をたびたび得て、当初のイメージはそのままありましたが、内山さんの御人柄やらを知るようになりました。
内山さんは戦後、社会主義運動から労働運動に入り、解散した総評の有力な産別だった全国金属の調査部を永く勤められました。調査部といっても、当時の労働運動では、私鉄、電機、鉄鋼といった産別と同様に労働運動での重要な分野であり、「花形」でもありました。理論派の内山さんにとって、水を得た魚のように活躍されたことを聞いています。
1970年代の終わり頃、内山さんの春闘をテーマにした講演で、瀬戸内海でのある大メーカーの全国金属所属の労組が、当時対立していた全金同盟に組織変えしたことを例に挙げ、「なぜ向こうに行ったか。職場での運動がなくなり、交渉などすべて中央でやるようになったからだ。中央だけの運動では、幹部請負になり、いざ合理化攻撃がなされても、職場からの闘いが構築できない」と強い調子で語られたことがあります。
その後内山さんは全国金属を離れ、総評に入りますが、とりわけ、地域での闘いを強く主張されていた内山さんは、総評副事務局長として日本全国の市町村に地区労を組織し、国民春闘を支えようと、1989年の総評解散まで活躍されていたことを思い出します。また、今日のIT革命を見越されたのか、ME合理化にも多くを語られていました。産業再編成にも早くから対処すべしとも言われていました。
労働運動に人生の大半をかけられた内山さんは多くのことを私たちに遺されました。現在、時代は変わって労働運動は連合時代になり、戦後最低の組織率になり「冬の時代」といわれて久しくなりましたが、一方でいままた地域の闘いや職場段階での闘いが強調されています。
内山さんの遺されたものは、単に全国金属に及ばず、日本労働運動にとっての大いなる教科書でもあったと思います。
ご冥福をお祈りしたいと思います。(立花 豊)
【出典】 アサート No.268 2000年3月25日